国際男性デーは11月19日だそうです。
3月8日。またIWDが通り過ぎたので、
今一度女性について考えてみたんだ。
世界的にみたら、やっぱり問題は山ほどあるだろうし、権利を主張する必要があるもの、問題自体が気づかれず隠れてしまっているものたちが、ボコボコと音を立てるように地表から少し顔を出す。問題が問題であると認識されることは良いことだと思うけれど、そんな中でも、やり方に違和感を感じることがある。
女性が活躍している、女性が引っ張っていると言ったポジティブに聞こえる表現が、実はあまり好きになれない。曖昧な表現だし、頑張っている女性がいるのだろうけれど、それはその人の成果だし、「女性」というレッテルのようなのが逆に目立つ。まぁ…所詮は考えすぎなんだろうけど。
女性の活躍を数や指標、順位なんかで表したのを前面に打ち出すのも好きになれない。わかりやすいとは思うけれど、大切なのはそこに出てくる数字ではなく、内容だと思う。数字は嘘をつかないかもしれないけれど、数字はコントロールが簡単だ。増やせば見栄えが単純によくなる。でも中身が付いて来ていないこともあるし。
世界基準を揃える必要もないと思う。イスラム教は女性に厳しいといった印象がある一方、ある研究ではコーランは世界で初めて女性の権利を謳った宗教だという人もいるみたいだし。
そりゃ国際社会だから影響されるし、されて然るべきだと思うけど、文化も環境も違うし、経済も政治も違うのだから、その国の中の最善と、差異の共有、または交流における妥協点が大事だと思う。
じゃぁ女性って性について考えれば…
やっぱり生まれ持って出てきてしまった性別は、一種の個性であり、特性であるに過ぎないなということ。顔やスタイルが良い子はモデルをやるかもしれないし、運動ができる子はスポーツ選手になるかもしれない。頭が良ければ学者になるかもしれないし。それはそれぞれみんなの能力で、性別もその1部だと思うんです。その個性は良くも悪くも影響力が比較的大きいということ。
だから、男女差のある職業があるのはしょうがないし、わざわざどんな場所でも平等に男女がいる必要はないと思う。大切なのは機会がひらけていることかな。無理に結果における数の平等をとる必要なんかない。
最近じゃ、アンチフェミニズムを唱える女性も増えているらしい。なんだか本末転倒?なんというかたぶん、単に捉え方とか実際に行われてるやり方への反発ではないかと思うんだ。
時代が変わっていくのだからフェミニスト的なやり方も変化していく必要があるのかなと思う。
せっかくの国際女性デーなのだから、世間への不満や、他人からの視点よりも、女性たち自身が女性であることを誇れる日であればいいなぁと思う。
女性バンザイ!わたしバンザイ!
女性らしさとか、自分らしさとか、もうほっとこ。
大変なこともあるけど、すごいぞ!偉いぞ!
そうだこんな日には
自分に、女性に、花束を贈ろう!
さて、11月19日は国際男性デーだそうだ。
もっとそっちの知名度もあがるといいね。
多様性に潜む最もらしい攻撃性
多様性とは今ではもうほんとに聞き慣れた、真新しさもない、比較的重要な価値観である。
…ように見える。
もちろん、言葉の意味をそのまま解釈すればそうかもしれないし、実際そうなのかもしれない。
ただ、私は多様性が多用されるたびに、違和感を感じる。
「多様性」という盾を武器にとって、「既存の価値観」を攻撃しているように見えるのです。
それの何がいけないの?と思う人もいるかもしれませんが…
そもそも、多様性やダイバーシティという考え方は、互いの価値観を尊重し、受容し、更なる価値観の創造という考え方だと私は認識しています。
それは、もっと自分自身に密接な、血肉となる防具というか、己自身を形作るものであって、自分の体から離れた、武具ではないのではないかと。
つまり、あなたは例外です、という人は存在しなくて、あなたのどんな斬新な価値観も、どんなありふれた価値観も、非難されるべきものではなく、尊重され、その上で多くの人が採択するものなのか、共存する社会の上で、どう享受されるべきかを考える必要があるということで、互いの価値観を壊すためのものではないということです。
既存の広く認知された価値観を強要するという考え方にはもちろん反発を覚えるでしょう。
ただ、芸術や、その他個人の主張の場である作品の数々や、既存の価値観に限りなく近い価値観を持って生活している人たちを非難するのは、それこそ、多様性に反しているのではないかと思うのです。
多数派に属さず生活してきた、または生活しなければならない選択をとらざるを得ない方からしたら、型にはまった価値観はできるだけ無くなって欲しいかもしれません。
私も既存の価値観が正しいと思っているわけではないし、反感を覚えるような当たり前が溢れているのも確かです。ですが、そこにだってそれなりの価値はあると思っているのです。
長い年月をかけてその場に君臨し続けてきた、そのパワーたるは、なんとも凄まじい。
だからこそ、恐れおののき、脅威であり、その場からなんとしてでも引きずり下ろしたいとさえ思う。
多様性という武器を手に取った、少数派と名乗る、個々人の集まりである大規模な無所属の多勢が、たったひとつの過ちやたった一つの主張を手玉にとって、城を囲んだ総攻撃である。
大切なのはたぶん、押し付けないことだ。だから私のこの感情も決して押し付けてはいけないのだと思う。
憤りや不安、悲しみや反感をもつのは、感情だものしょうがない。冷静に判断するのは、きっともの凄く難しい。ポッと出のまだ身に染み込んでいないダイバーシティなんて逆に押し付けられたって、その対応もまた難しい。
けれど、端を発したように投げつけられる言葉たちはきっと、傷つけ合うだけで、新しい価値観は生まれないように思うのです。
だから、ここらで少し一休み。
多様性ってのが、誰もが集まりたくなるような、春の優しい木陰のような空気感であればいいなと思う。
いつものルーティンもきっと毎回特別
朝は足早に駅へと向かう。
みんなそそくさと動いて
道ですれ違う人はだいたい同じ
とは言え知らない人だから声をかけるでもなく
あぁ、今日はこの信号か。
なんて、
なんとなくどこで会うかで時間が読めたりして
東京にきてすぐの時は、駅での人の波があまりにも足並みを揃えているので、軍隊かと思ってしまうほどだった。そうか、みんな社会の荒野へと出陣しているのだなぁ。スゲーなぁって。
ザッザッザッザッ。階段を登る音。
ついニヤニヤしてしまっていた。
そんな時期も終わり、今は上手に降りない駅でもさっと降りて出口を空けられるようになったし、満員電車の所作も慣れたものだ。タクシーを駅じゃないところで拾うのだって、ドキドキしないで手をあげられるようになった。
だけど、そうなってくると、なんだか最初の衝撃とか、人の動きとか、面白かったいろんなことを気付かなくなってるなぁって思ってた。
でも、今朝は久し振りにニヤニヤしたので
ココで小話をひとつ。
普段通り無機質な顔して歩いてたのだけど
輸入絨毯のお店の前にいたお兄さんと、うっかりバッチリ目が合ってしまいまして。
日本人じゃないからか、目をそらすとか、シャイな様子もないせいで、一瞬の間が…
お得意なジャパニーズスマイルとジャパニーズ会釈をしてみたら、お兄さんも会釈をしてくれて
なんだか嬉しくなったからフフッてしたら
お兄さんもフフッ。そんで思い出したようにGood morning !!ってワールドスマイル炸裂!
慣れない英語で、Good morning ! って返しちゃうよね、そりゃ。
まぁ、なんてことない話なんですけど。
だけど、ものすごく嬉しくなって、でもなんだか気恥ずかしくて。
あぁ今日は晴れてるなぁ秋晴れだ、なんて思いながら
ヘラヘラ、ニヤニヤうかれちゃって。
毎日すれ違うあの人たちには、バレてただろうな。なんて思いながら電車に揺られて、いつもと変わらない、そして毎日特別なはずの朝を実感しましたとさ。
ついに終止符を打った。
歌に重要なのはメロディーか歌詞か論争。
ついに私の好きな番組で取り扱ってくれたわ!
マーケティング的にはそりゃメロディーだろうなと思う。第一印象は歌詞を知らない状態で聞くことが多いし、CMや番組の前後に使われる曲も歌詞を知らずに好きになる。
歌詞のないクラシックやジャズの音楽だって楽しめるのだから、メロディーが大切なのは言わずもがなである。
ただ、メロディー派70%、歌詞派が30%には驚いた。半々くらいだと思ってた。
ちなみに私は歌詞派だったのだけど、心理的や脳科学的の解説には正直少し残念な気持ちだった。発達段階とか意味解釈とか結局そういうことになるのかぁと。もっと期待してしまっていた。
それよりも、結局気に入ってる曲は歌詞がいい歌だったりするじゃない?という感想の方がグッときた。
もちろんメロディーも歌詞も重要だし、歌詞に合わせてメロディーをつけるし、メロディーに合わせて歌詞をのせる。
どっちがどうとかではないのはわかってはいるのに、どうしてどっち派という話にしなければならないのか。
そう思ってたわけだけれど、これはあの話に似てると思ったんだ。恋愛対象者は、外見が重要か、内面が重要か問題に。
私は、メロディーは外見だと思う。外側という意味ではなくて、パッと見て好きになる。ファーストインプレッション。これがなければ先へのスタートが切りにくい。パーフェクトプロポーション。
歌詞は内面だと思ったんだ。最初はメロディーに惹かれたのだけど、結局歌詞もイケてるよね。そういう歌が生涯のマイパートナーソングになる。
外見がタイプ、メロディーが好き!それは自分をあげてくれるモノなんだと思う。必ずしもテンションが高くなるわけではなくて、沁みるものもあるはずだけど、感情が揺れ動く要因。瞬発的な影響力をもつ。
内面がタイプ、歌詞が好き!ってのは、自分の中にストンッと落ちるモノ。自分を思い出させてくれるモノ。自分とそれを結ぶモノ、惹き留めるもの。長期的な影響力をもつ。
そして、メロディー派は、作家や歌詞家がどんな意図があるかに関係なく、とにかく自分の想いや感情を大切にするんじゃないかなと。あなたはあなたであって、私は私。お互いの価値観を尊重しつつ、それでも私は好きだよって。感情を押し付けることなく、価値を評価するタイプなのではないかと。
歌詞派は、番組でも言っていたけれど、自分の経験に引きつけるて考えたり、共感することを大切にしてる。だからシンガーソングライターとかで、才能というよりも歌手の人格を好きになる人多いんじゃないかな。ま、私が特定の好きな歌手がいるわけじゃないから違うかもしれないけど。あとなんとなく、若干認めて欲しい欲求の強い人多そう。
して、結果どう落ち着いたかというと…
ぶっちゃけウダウダぬかしたが、結局のところバランスとフィーリングとマッチングが大事だよね。って話で、どっちも大事だっていう最初の話に戻ったのだけど、なぜだか私の中では終止符を打ったのでした。
どこかでそんな論争が繰り広げられた時、それはいつもどこに終着してるのだろう。いつも漠然と終わるような気がするのだけれど、きちんとした決着がつくようなら観戦してみたい。
※個人の感想です。
バラエティや通販サイトでよく見かける言葉。
個人の感想です。
そしたら、なんで全ての番組で用いないのかなぁと、ふと思った。ニュースや情報番組でももっと多様されてもいいのではないかと。
まぁそもそも苦情対策だろうから、苦情が出なそうなところで出す必要はないわけで、苦情がでるからバラエティの規制も厳しくなるわけだけど…。
それでも、私が思うのは、バラエティは個人の感想だが、ニュースは違うのか?という差別化が著しいと感じるのだ。ニュースだってコメンテーターとか個人の感想だいぶ含んでますよね?って。
まぁそもそもバラエティ番組でもそんな表示出さなくてもいいだろ派で、大事なのは事実であって、そんな表面の表記に興味はない。ただ、そういった苦情を出す人は全部に逐一ちゃんとしてくれているのだろうかと。
ニュース情報番組の与える影響の大きさがどれほどのものか。バラエティが与える悪影響とはどんなものか。
結局は全部リテラシーの話になってしまうけれど、バラエティ番組の規制が増え、情報番組では確かな情報が流れてることになるのかな?
して、なぜそんな話になったかといえば。
昔からニュースは悲しい出来事が多いなと、漠然と思ってたのだけど、事実なら何を伝えてもいいのかと、知りたい内容ならどんな伝え方でもいいのかと。
なんだか人の死が消費されているように感じたからなのだけれど。
事件や事故はもちろんのこと昨今では、いじめや労災による自殺の話。そしてその命は、1つの例となって、いつしかひとまとめにされて、時が来たら忘れられてしまったように話題にもあがらない。もちろん遺族の意向もあるのかもしれないけれど、それを見た今苦しんでいる人はどうしたらいい?流すなというのではなくて、流すことの影響はどう考えてるのかなと改めて思うようになった。
個人的には、もしそういう情報を流す側として考えたら、そういう事実があるという共有と、世間的に認めてはいけないという風潮を広げることと、対策を急ぐよう呼びかけになること、かわいそうだという共感と加害者への非難を促すものになるのではと考えるのではないかと。
でも今死にたい人とかはそれを見てどう感じるのかなって。あぁ、みんなそうなんだ、私1人じゃないって安心する?そうなのかな。
私は私だもの、1つの事件からすぐに自分の解決には繋がらないと私なら思う。少なくともそんな楽観的になんて考えられない気がするの。
私だったらね。個人の感想だけど。
むしろ、あぁ、そっかぁ、遺書は書いといた方がいいかもなぁとか、線路に飛び込むのは迷惑かなぁとか、そんなこと考えてしまう気がする。先に逝った人がいる私だけじゃないって。
離婚した片親の子どもは、結婚しても離婚する確率が高い。なんていうジンクスがある。
これは、親が離婚したから、両親の家庭を知らないとか遺伝とか性格とかなんか直接的な問題があるわけではないらしい。離婚が身近なものとしてあることが原因の1つといわれている。選択肢としてあがりやすいのだろう。
ちなみに、同じ理由で同棲をしたが別れたことがある人も離婚率が上がるらしい。
つまり、身の回りで触れる機会が多いものに対しての壁が低くなりやすいということを意味する。
最近の離婚率があがっているのも、離婚率があがっているという情報が離婚率をあげる可能性があるのではないかとさえ思う。
離婚に関しては我慢しなくていいと気が楽になるかもしれないね。辛かったら、嫌だったらやめたらいいのだけど…
事実だろう。事実なんだろうけど、その情報をもってして、どうしたい?事実を伝えることは大切かもしれないけれど、それを伝えるとどうなる?
まっ、結局見る側の問題なわけですよね。
そうなのよ。そう考えると、バラエティの暴力的な描写と、危険な映像と、残忍な事件と、何が違うのですかと思うのです。
して、私が思うのは、身の回りでの対応策をもっと伝えて欲しいということ。その事実を流すことにも意味があるだろうけれど、他に実際に助かっている人がたくさんいるということ、共感と共有で見た人の心が救われる道を示すこと。
嘘や妄想を並べろというわけではないけれど、アホみたく夢みたいなこと流せってわけじゃないけど、もっともっと幸せの形を情報として流してもいいのではないかと。その比率が限りなく五分に近い方がいいと思うんだ。むしろ人の幸せなんか記憶に残らないことが多くて、危機管理として嫌なことばかり頭に残るから、少しハッピーの方が多くてもいいくらいだと思う。
辛い人には幸せアピールはマイナスになることももちろんあるから手放しにただハッピーを流せともいえないけれど、幸せな時代に生きているなと満足感が増す可能性もあるのではないかと。
そんな生ぬるい情報で甘ったれた考えではいけないと思うかもしれないけど、なにクソって反骨精神を鍛えるのもいいけど、みんなが幸せだなぁ、はははぁってアホヅラでもよくない?
全部事実であることが前提だよ、もちろん。そして、悪いニュースを全く流すべきではないとも言わない。
けどね、結局ニュースで得られるのは情報であって身近には感じにくい。悲しみも切なさも苦しみも、結局人なんて、他人事だと思えるから立て続けの悲劇的なニュースを見ていられるんでしょ?
親族の死を、最愛の人の事件を、友人の事故を淡々と事実だけを述べるニュースを見ていられるの?私には無理。
個人の感想だけど。
この情報過多な世界で、1つ1つのニュースを、限りなく量は少ないけど、毎日丁寧に扱う。そんなニュース番組があってもいいんじゃないかなって。そう思ったんだ。
同窓会という時空と現実の瞬き
私は人の幸せを幸せに思いたいし、思おうとしてるつもりだ。
うん、「している」というほど恣意的でも、無理にでもないのだけれど、少なくともふんわりと広がる緩やかな温かさと、幸せを分けてもらえてはいる。
けれどやはり、その温かな湯船からあがると、嫉妬や、焦燥や、空虚さという好ましくない感情が私を襲うことがあるのだ。
古くからの友人たちが、何にも囚われることなく当たり前に日々会うことが、少しずつ、少しずつ難しくなっていくのを、改めて感じざるを得なかった同窓会。
家族がいる者、結婚する者、仕事がある者、海外に行く者。
幸せで充実した素敵な理由が、彼らを私から遠ざける理由として聞こえてしまうのであった。
これはきっと私がまだまだ自分の人生を使いきれていないのだと、自分に振り返り思い直すのだが、ぷつりと針で刺したような小さな穴から、冷たい風が流れて来る気がした。
肌寒い。
隙間風は、気にしなければ気にならなかったはずなのに、気になり出したらなかなか無視できなくなる。
思い出に浸っているだけなんだろうな。
小さな頃、白髪の混ざった大人たちが、少年少女のように笑う飲食店の一角が、なぜか時空を越えているようにみえたよね。
懐かしむ思いと、その戻らない時間にほんの少し触れたから、切なさを覚えただけなんでしょ。
けれど、誰かの代わりを誰かに託すことなんてできないし。いい思い出だったわ。なんて彼らとの出会いを単なる過去に終わらせてしまいたくないし、終わらせないでと願ってしまう。
ワガママだからさ。1度繋がったものを、1度触れた紐の先っぽを、放してなるものかと。
こっち向いてよって。。私を忘れないでって。
口に出さずに胸が詰まった。
そうして気づいたのです。
あぁそうか、こうやって私は昔の自分と少しずつお別れをしなければいけないのだなと。彼らとではなく、昔の自分と。
これはきっと、過去の私が消えて逝く冷たさなのだと。
何気なく生きている毎日も、また知らず知らずのうちに今日の自分を終えて逝く。
終えた私が、今の私に置いてかないでと縋るんだ。ねぇ、一緒にいようって。こっちは幸せだよって。
けれどそれはもう私の亡霊で、だからホントはとても冷たくて、怨念が私を包み、人の幸せを妬み、哀しさを植えつける。
どうしたもんかな……
とにかくもう、今を、一瞬を、もっともっと輝いて生きなくては。そうやって、その一瞬を燃やすことで、私は生きる為の暖を取り続けなければ。
そうでもしないと、昨日の私が、そして昔になっていく私たちが報われない気がしたんだ。
とにかくもう、今を、今の私は、幸せだと叫び続けたい。
そうして素直に、心から人の幸せを喜びたい。
逢えなくなったっていいんだって。
私たちはいつも一瞬の強い光だったんだからって。なんてさ、思えるような人になりたい。
皆勤賞という弊害という考え方という責任転嫁?
皆勤賞を廃止しようという時代の流れがあるようです。
日本社会的に、有給休暇を使わない、休みにくい雰囲気を助長しているからみたいです。
休まない=偉いという感覚を払拭したいみたいです。
その感覚を他人に強要するのは違うとは思うし、どうも賛成派が多いようですが、なんでわざわざ皆勤賞を廃止する必要があるのかと、私などは思ったりしています。
廃止を反対したいというよりは、それにそんなに意味があるのかなと、もう少し詳しく聞きたいのです。
主人公を特定の子にしない舞台劇に
1位を決めない運動会。
競争も賞賛もされないのがいいのでしょうか。
私の感覚がずれてるのでしょうか。
多義性を重んじるなら、みんなそれぞれ褒めてあげても良くないですか?
元気が取り柄の子とか、いや病弱だからこそ休まずに行こうとした子を、最後の最後に表彰することがいけないことですか?
休んじゃいけないなんて、学校も言ってないですよね?卒業単位とりゃいいわけでしょ?
そういった意見の方は、皆勤賞を取った方なのかな?取れなかったけど、強制されてた人なのかな?
大学時代も皆勤賞だったのかな?休まずに授業受けてた?あぁそっか、皆勤賞ないから休めるのか。なるほど……。
じゃぁ、大人になって休まなかったねぇ、偉いねぇって褒められたいのかな?大事なのは休まないことじゃなくて、結果出すことでしょ?
みんなはなんで休めないのかな?褒められたいから休まないの?迷惑かかるとか思うからのほうじゃないのかな?学校休んだら誰かに迷惑ってかかったっけ?
社会人のシステムと学生の時のシステムってちょっと違くない?
皆勤賞が目的になっても、それはそれでまたいいとは思うんです。それで学校行きたいって思えるなら、それでもいいんじゃない?行きたくない子が多い時代に、少しでも理由があるなら、それでもよくないですか?
皆勤賞には、意味がないんだそうです。子どもの頃に表彰されたあらゆる中でも、最もメリットがなく、むしろやっぱり休めない社会を作る弊害なのだそうです。
確かに今後に活かせるようなメリットないかもしれないですね。でも思うのは、そもそも無意味なものは表彰してはいけないのでしょうか。
正直私は、小学生の時にもらった賞は、現在ほとんど活用などできてないと思います。そもそも小学生くらいの時にもらった賞なんてそんなもんではないのでしょうか。いや、というかそんなん言い出したら巷に無駄な賞なんて山ほどありません?
表彰に意味や価値を付加させられるのは本人の考え方次第だと思います。どんな立派と言われる賞だって、使い方次第、アピール次第じゃない?
なんかやったら、結果褒められちゃった、
やっぴーくらいな感じ。
それがなんか個人的に頑張ったものなら、それぞれの賞を貰ったっていうだけで、自分の能力とか頑張りとかよりも存在を肯定されたみたいで嬉しかったけどな。
単に皆勤賞廃止ってのはさ、
じゃぁめんどくさいし、廃止!
って言っているようにみえてしまうのです。そうじゃないとは思うけれど…
そうでないとしたら、皆勤賞のシステム少し変えてみるとかではダメなのかな?熱がでて休んでも公欠にしてあげたら?社会人の有給システムみたいな。それじゃホントに休まなかった子がかわいそう?嘘ついてまでそんなのに必死に皆勤賞欲しいならあげれば?だって皆勤賞に意味ないんでしょ?意味ないならあげてもよくない?むしろ今後有給をうまく使う練習ができるよ。うん、そのほうが有意義じゃない?
高校くらいからは課外授業や認定単位システムみたいの導入するのは?
いじめられてたり、学校行きたくなかったり、すでに将来の夢があってもっと関心のあるものに使える時間を作ってあげるのは?
そもそもね、学校休む子は悪でしたか?家族旅行とかでも私は羨ましくてしょうがなかった。行けるもんなら行きたかった。ディズニーランド行ってきたぁってお土産くれる子、嫌われてた?休むのはイケナイこと、なんて感覚、そん時も持ってなかったと思うんだよなぁ。
それにさ、偉いか偉くないか、じゃなくて
単純に休まないって結構大変だと思うんだよね…。行きたくないとかってあるじゃん。友だちと喧嘩しちゃった時とかもあるじゃん。体調悪いときも、嫌いな科目があるときも。でも全部、なんとか乗り切ってきたか、まぁそういうことが無かったか。そりゃそれでハッピーラッキーすげーじゃんって。運がいいのもすごくない?
皆勤賞は絶対残すべきだ!って主張まではないけれど、私はただ、褒めてあげる機会を減らすことにそこまで重要な意味があるのか、と思うのです。
休めない社会人は皆勤賞貰った人たちなわけじゃないと思うんです。だって私の学校では1年に2、3人しか出てなかった気がするの。
つまりさ、そんなに大量の休めない人は生産されてないはずなんだよ。そうじゃない?
つまり、根本的な感覚の問題でしょ?
それ、皆勤賞の所為にしてないですか?
って思うのです。
なんで素直に、休まなかったの?すげーって言えないんだろ。
学校なんてそもそも行かなくたってどーとでもなるという個人的な意見がある中で、行った子におつかれさまぁーみたいのあってなにがいけないのか、と。
賞賛するに値しないってことなのかな。
なに毎日学校きてんだよってなるのかな。
ばかみたいなのかな。
誰かを傷つけるのかな?
休まないことは悪なのかな。
廃止です!皆勤賞は害です!って私はあまり直結しなくて…悪い面もあるのかもしれないけれど、それは皆勤賞が悪いの?その表彰の仕方とか、取り組み方とか、別のところにあるような気がする。そしてもっと、休めない日本人性を変える方法あるんじゃないかってことを言いたかったのでした。
いろんな意見の人がいると思うけど、
皆勤した方々には、賞とか無くなって構わないから、とりあえず私からは
すげーね!っと伝えたいです。
追記
皆勤賞廃止について、友人と話してみました。私の考えが至らない部分があったのだけど、学校の、特に義務教育において、基本的には社会の縮図というか、当たり前だけど、社会で必要である知識を身につける場である以上、社会で価値があると考えられるものに教育の場にも価値を持たせる必要があると。で、社会に出た時に、休まないね、偉いねにはならないと。だったら、教育機関において、その労力を社会にも還元できるとこに向けさせる必要があると。また、「賞」として維持することに、少しでも不快に思う人がいるのであれば、社会に直接還元されないものは排除した方がいいだろうという、ざっくりいえばこう言った見解ではないかと。
なるほど、理解した。
とはいえ、一種の強制的で規則的な時間で、リズム正しく、健康に過ごすことって実は私はあの時期しか求められていなかった気がするから、あれが自分に向いているのか、向いてないのか、お試し期間な気もするんだよね。それができることは一種の特性だとは思うのね、だから賞としてではなくても、価値はあると思うの。だから、賞という形が残らないとしても、休まずいった人にはやっぱりすごいねって言ってあげたいし、それをどう活かそうかって話してみたいな。