多様性に潜む最もらしい攻撃性

多様性とは今ではもうほんとに聞き慣れた、真新しさもない、比較的重要な価値観である。

…ように見える。

 

もちろん、言葉の意味をそのまま解釈すればそうかもしれないし、実際そうなのかもしれない。

 

ただ、私は多様性が多用されるたびに、違和感を感じる。

 

「多様性」という盾を武器にとって、「既存の価値観」を攻撃しているように見えるのです。

 

それの何がいけないの?と思う人もいるかもしれませんが…

 

そもそも、多様性やダイバーシティという考え方は、互いの価値観を尊重し、受容し、更なる価値観の創造という考え方だと私は認識しています。

 

それは、もっと自分自身に密接な、血肉となる防具というか、己自身を形作るものであって、自分の体から離れた、武具ではないのではないかと。

 

つまり、あなたは例外です、という人は存在しなくて、あなたのどんな斬新な価値観も、どんなありふれた価値観も、非難されるべきものではなく、尊重され、その上で多くの人が採択するものなのか、共存する社会の上で、どう享受されるべきかを考える必要があるということで、互いの価値観を壊すためのものではないということです。

 

既存の広く認知された価値観を強要するという考え方にはもちろん反発を覚えるでしょう。

 

ただ、芸術や、その他個人の主張の場である作品の数々や、既存の価値観に限りなく近い価値観を持って生活している人たちを非難するのは、それこそ、多様性に反しているのではないかと思うのです。

 

多数派に属さず生活してきた、または生活しなければならない選択をとらざるを得ない方からしたら、型にはまった価値観はできるだけ無くなって欲しいかもしれません。

 

私も既存の価値観が正しいと思っているわけではないし、反感を覚えるような当たり前が溢れているのも確かです。ですが、そこにだってそれなりの価値はあると思っているのです。

長い年月をかけてその場に君臨し続けてきた、そのパワーたるは、なんとも凄まじい。

 

だからこそ、恐れおののき、脅威であり、その場からなんとしてでも引きずり下ろしたいとさえ思う。

 

多様性という武器を手に取った、少数派と名乗る、個々人の集まりである大規模な無所属の多勢が、たったひとつの過ちやたった一つの主張を手玉にとって、城を囲んだ総攻撃である。

 

大切なのはたぶん、押し付けないことだ。だから私のこの感情も決して押し付けてはいけないのだと思う。

憤りや不安、悲しみや反感をもつのは、感情だものしょうがない。冷静に判断するのは、きっともの凄く難しい。ポッと出のまだ身に染み込んでいないダイバーシティなんて逆に押し付けられたって、その対応もまた難しい。

 

けれど、端を発したように投げつけられる言葉たちはきっと、傷つけ合うだけで、新しい価値観は生まれないように思うのです。

 

だから、ここらで少し一休み。

多様性ってのが、誰もが集まりたくなるような、春の優しい木陰のような空気感であればいいなと思う。