創造の世界
たまに、ぼーっと
みるでもなく窓外を眺め
ふと我に戻って
手元の携帯を手に取り画面をみつめる
ん???
なんで見えるのかな。
確かに視力は検査で1.5を割り込まず
一番下のランドルト環の向きもわかるほどに
眼はいいほうではあるけれど。
なんで、手前の窓は気にならないのかな
なんで、ボケないのかな
なんで、反射して映り込んでいる景色は見えないのかな
わざとどこにも視点が合わないようにしてみる。。
自分の鼻や、自分の髪の毛に視点を合わせる。。
それが常に視界に入っているはずなのに。
なのに私たちは入ってきている情報を都合よく修正する。
赤ちゃんは視力が悪いと聞いたことがあるけれど、視力が悪いんじゃなくて、近くのものがじゃまだったんじゃないかな。。
とか思ったりする。
私たちは普段自然に、目の前のまつげや鼻を無視して世界をみつめてる。
目が色を解釈できる範囲は極限られていて
目の端の方は白黒のはずなのに
目は常に微動して補足して調整する。
ぼーっとしてる時も「何か」に焦点を合わせて「見て」いるんだよね…
特に意識することなく何かに視点を合わせてる
昔国語の問題文にジャーナリストだか写真家だかの論文があったと思う。
その著者は、
客観性というものは存在しないって
彼らが書いているのは限りなく主観的なんだって
彼らは目の前で起きたことをすべて書き出すことはできない
彼らは主観的にそこにあるものを選び、抜き出してゆく
客観的とはそういうもので
この見えている世界は全部主観でしかない。
生命中心主義という宇宙論的な仮説がある。
ランザという人が言ってたらしい。
量子力学の世界でさえ、そんなこと言っちゃうんだと思った。
ざっくり言えば、
私たちに見えている世界は、
そもそも見ようとした見方でしか見えないってことなんだと思うの。
つまり、意識や知覚によって左右された世界に生きているということ。世界は全て精神構造を元に顕在しているってこと。
これは私の思考をサポートする都合のいい解釈かもしれないけれど。
よって、
人間が作り出した宇宙、世界でしかないんだってこと。
もっといえば、私たち本人が作り出した世界でしかない。
パラレルワールドだって死後の世界だってあるって言えちゃうらしい。
御都合主義も甚だしい。
だとしたらそりゃぁ世界は人間に都合よく見えるに決まってる。人間がまるで主権者にだってみえるさ。人間中心主義の言わんとしてることだってあながち否定できないってわけだ。
そんな創り上げられた世界に、
著しく主観的な世界で、
できるなら自分の能力も超えた世界もまたみてみたいけれど、それがもし難しいなら…
だとしたらまるでこの仮想現実のような中で、もっと自分の都合のいい世界を創ろう。
みんながみんな幸せになれる世界が己の精神構造の中に、常にきっと、存在してる。
小さい頃は神様がいてーー♪
きっとホントにいたんだとおもう。
まだ固体化していないたくさんの物質が、あの頃にはみえていたんだと思う。
またなれるかな、あの頃みたいに。
明日の朝は優しい気持ちで目覚めたい。