別学か共学かって?女子校です。

Abemaで、別学が必要かどうかと言うようなテーマで話していたので、私も興味があったので、個人的な見解というか気持ちを整理してみたいなと思った。


私は高校が女子校だったんだけど、中学生の時は、女子校って変ないじめが蔓延しているという勝手な妄想で、絶対行きたくないと思ってた。これは私自身が持つ女性への偏見だったと思う。私が女であることがあまり好きじゃなかったからもあると思う。

で、もう一度選べたら、同じ条件なら同じ学校に入ってると思う。

これは正直別学かどうかというより、学校の校舎や環境、文武両道の実績、通い易さが大きくて、プラス要素として単純に楽しかったからかな。ただし、体験として共学も行ってみたかったなという思いは、ある。


では、私が思う女子校の印象やメリットというか、共学とは違うかもと思ったこと。


Abemaでも言ってたけど、趣味や個性が爆発するイメージはある。いわゆるオタクみたいな人に溢れてた。モテの話やカーストがないとかみたいなことをいっていたけど、とにかく容姿端麗みたいなジャンルも、ひとつのジャンルになって、尺度が多様化すると言った感じが私の印象。可愛い子は女子校でもちゃんとチヤホヤされる。だけど、同じくらい面白い子も人気者だし、運動神経抜群の人は憧れられるし、仏像に詳しいと尊敬される。ただし、尺度が増えたせいで、ライバル(?)が多い尺度1つだけしか特色なくて、飛び抜けてないとそんなにフューチャーされない。つまり、同じくらいの学力で入っているので、ただ頭良いでは弱いし、女の子しかいないんだから、可愛い子もたくさんいて、ただ可愛いだけでは弱いみたいな可能性はあるかな。だから、どんなジャンルでもオタク的に飛び抜けてると一目置かれる。そんな印象。

勉強や部活に没頭できるという点に関しては、私はあんまり効果があったかは分からないな。普段からそんなにみんな異性とかのこと気にしてるのかな?他者の目という意味では、女子校でも私は意識してたし、中学校の時は共学だったけど、その時から特に変わりはないと思うんだけど、どうなんだろ。うちは兄弟がみんな男だからか、男性に声かけづらいとかはそもそもないし、むしろ女子校の方が、どう見られるかどう立ち回るか、どんな役回りになるべきかを考えてた気がする。小学校とか中学校とかから別学だと少し違うのかな?あと私の場合はスポーツクラブ入ってたから、異性に触れる機会があったってのはあるかもな。でも塾行ってる人は、共学の環境みたいなもんじゃないのかな?

あとは、性役割みたいな女性だからみたいなのは無くなるというのは感じる。あぁ、でもたまに女性らしくって話を言ってくる先生はいたし、こんな生徒を育てたいという要素の中には、いわゆる女性らしい分別は求められてたかな。ただ生徒同士では、自分には何ができるのか、できるものをやろうとするから、性別と結びつかない自分の特性を見つけることはできるかも。だけど、その校内のコミュニティにおいては、いわゆる性役割的なものが生じることになる。つまり、力仕事ができてイケメンで体育祭で活躍するハキハキしたムードメーカーとか、絵がうまくて文化祭で活躍するミスも優しさで包み込んでくれるような癒されマドンナみたいな。男性性と女性性が生まれるイメージが私にはあった。だから尚更、性役割っていうか遺伝的な話ではなくて、コミュニティ内に必要な役割分担なんだろうなと思ったかな。体格的、性格的、特性的に優ると思われる人がやる事に理があると思う。それがたまたま遺伝的傾向が強いんだと思うし、だったらそれで良いじゃんと、個人的には思ってる。

あとは、異性がいないせいなのか、元々なのかわからないけど、同性に恋をしたり、付き合う話を耳にする機会があった。だから、今世間で同性カップルの話がけっこうあがってるけど、まぁいるだろうね、くらいの感覚。社会制度の問題に関してはとりあえず置いとくとして、たぶん気持ち的に受け入れやすい環境だとは思う。


で、別学で1番問題なのは、たぶんこの点に類似して、遺伝や戸籍の性別と、自認が違う人をどう判断するかだと思うんだよね。私は女なのに女子校に入れないってのは悲しいよねたぶん。めちゃめちゃ否定されてるような気分になるかもしれない。

別学は別学の、共学は共学のメリットがあるだろうなと思うから、どっちもあって選べたらいいんじゃない?と思うけど、この性自認の問題と、男子校の方が学校数が多いって話なので、単純に入学の倍率として、バランス良くあった方がいいんじゃない?っていうのが私の感想。


私立であれば、その学校の校風とか目標とか、理念があるのだから、それに沿った、それを望む人が集まればいいと思うので、勝手にしたらいいのでは?と思う。もしその学校が望まれなくなれば、単純に衰退し淘汰され、知らぬ間に共学になっているかもしれないけど。私的には試験結果で選別してるような類のひとつなのかなって思ってる。我が校に求めるものってやつ。もちろんどう足掻いても変えられない基準を設けていいのかって問題はあるよね。そこは特に公立校で議論が必要かもしれないなと思ったかな。


まぁ私の体験としては、女子校楽しかったし、そこでたくさんの仲間に会えて、行ってよかったなぁと思ってる。あと、母校が共学になるんだけど、それは女子校がとか言うより、知ってる母校が無くなるような感じがしてちょっと寂しいなと思うものです。


メーカーか歯医者さんに届け

提案させてほしいことがあります。


多分メーカーさん等は不断の努力をなさっていることと思いますが、この技術革新の中、歯医者さんの音が一向に変化がないことが不思議です。

麻酔等で痛みへの恐怖はだいぶ緩和されたことと思いますし、苦痛のない治療を尽力されていると思います。柔らかなクラシックをかけて、優しいレモングラスのアロマを焚いて、寄り添うように声をかけてくれる歯科助手の方々。

だけど、やっぱり私は昔からあの音が1番嫌い。

自分が治療してるわけじゃなくても、院内に鳴り響く恐怖の金切音。


調べてみたら、昔よりずっとよくなっているらしいし、お医者さんに相談したら、耳栓やイヤフォンをつけてもいいと言われるらしい。

痛みが緩和されたせいで余計音が気になるようになったのかもしれない。


例えばなんですけど、

乗ったことないのでわからないんですけど、USJのジェットコースターで耳の後ろあたりで音楽が流れるやつがあるって聞いたんですけど、そういう椅子にするってどうでしょう?あとできたらもう少し車のような安心感のある包み込む椅子がいいな。

耳栓とかイヤフォンだと、自分で持ってかなきゃいけないし、実際どんな治療になるかは、行ってみないとわからない時ありますよね?

あと、人が使った耳栓やイヤフォンは、今の時期は尚のことですが、衛生的にも良くないじゃないですか?消耗品にするには、なかなかゴミ削減の時世には似つかわしくない。

だから、椅子の耳の後ろあたりから聞こえるスピーカーはいかが?

お好みでいくつかの音楽から選択できて、耳の後ろから流れてくるから、一応先生の声も聞こえるし、音量も調整できるようにしたらいいと思うのよ。伝えなきゃならないことがあったら、先生が一時的に切ってもいいと思うし、要らない人にはオンにしなきゃいい。

もうあるのかな?無駄な設備投資のなのかな?

例えばさ、それが単なるスピーカーとして機能するなら、音楽じゃなくてラジオとかでもいいかもしれないし、ちょっと入り込み過ぎて問題あるかもしれないけど、子供はアニメ見ながらできないかな?映像グラスみたいな着けて。ダメか…

あの恐怖や痛みが反省に繋がるのかな。。


結構ちゃんと歯磨いてるんだけどな。。

食いしばりで歯がかけるんですよ。

その度に行く歯医者さんが、あともう少しだけハッピーになったらいいなと思っただけなんです。


すみません、我儘言いました。

いつもありがとう、歯医者さん。




私の好きな名言(随時追加)

◆人間が創造できることは、人間が必ず実現できる

ジュール・ヴェルヌ

 

◆巨人の肩の上にのる矮人

―ベルナール

 

◆神さま、死の間際になって、やっと気づきました。あなたはそもそも生きたことがおありではなかったのですね。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

 

◆幸福になる秘訣は、幸福を求めて努力することではなく、努力そのものに幸福を見出すことである。

アンドレ・ジットー

 

◆人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない。

キルケゴール

 

◆第1原則、自分をだまさない。自分が自分に一番だまされやすいのだから。

ファインマン

 

◆立ち止まった瞬間に、衰退し始める

―エーリッヒ・フロムー

建設か破壊か

さて、今年もまた国際女性デーが過ぎ去っていたので、全体的にふっと思うところを漠然と吐き出してみる。


女性かどうかに限らず、最近は固定観念に縛られないことや、様々なところでよりフリーなスタイルが認められつつある。

喜ばしいことだ。


ただ、その度に思うのは、

そこもまた強い意志の人の思いによって左右されてないかなぁってこと。


自由ってすごく難しいと思うんだよね。

うちの方針はものすごく自由だったから思うのだけど。


とりあえず言われた通りやってみて、違かったらその都度変えてみたり、選択肢があった方がずーっと楽だし効率的だと私は思うのです。

つまり、単に今自分を縛り付けている性別差などの視点や偏見や規定を取っ払うことに尽力するよりも、多少偏見的でも、まずはそれなりにルールはルールとしてある、もしくはあった意義も認めつつ、イレギュラーを拡大していくくらいがいいと思うって話。


もちろん時に起爆剤も大事だとは思うのだけど…

OKわかった、じゃぁはーい、なんでもいいよぉ~って言われたら怖くない?

無責任だって思う?

だっていきなり自由を許したら、それもまた管理する側だって大変だよ。

誰がどうやって統制するの?

それって誰にも頼れないってことなんだよ?

自ら律しなきゃいけないし、

人と比べてはいけないし、

正解かどうかもその度に違うことになる。

自らの自由を認めるということは、

他人からの批判や意見もキッチリと自己で受け止めなければいけないってことになる。

耳を澄ませばの雫のお父さんも言ってた。

何が起きても、誰のせいにもできないからねって。

その通りだと思う。


生き方は、もちろん自由だ。

女性の権利も高らかに唱おう。


だけど、今まであった、私たちを囲う檻や柵が、必ずしも私たちを閉じ込めるためだけにあったわけではなく、時に守り、時に繋がりを作り、時に武器となり、利があったことも認めた上で、

自らの意思で柵を飛び越え、防具を身につけて進む必要がある気がするのです。

いや、単身である必要もなく、部族ごとに移動してもいいし、新しい柵を増築することもいいと思う。

だけど、いきなり全会一致のように柵をぶっ壊したりしないで欲しいなって。まだ覚悟できてない人も、そっちに行きたくない人もいるかもしれないなぁって。野ざらしになってしまうよ。


不満なんていくらでもある。

言い出したらキリがない。

ただの不満だと無駄な批判を浴びない為にも、私もいたずらに何かを嘆くことなく、何かの代表としてでもなく、あくまでも私の意思をもって、より自分自身納得できるよう、自分が持てるだけの能力を、出来るだけ上手に使って、楽しく生きていきたいなって思う。


そんで多くの人が、くすぶっている能力を、恥じることなく、弾圧されることなく、伸びやかに広げることが出来るようになれば良いな。その世界がどんなものなのか、うまく想像できないけれど、きっといい社会だと思うんだ。そうじゃないだろうか……。

 

映り込まないものと感覚世界

スキャナーの上を素早く私の手が通る。プレビューには映らない、確かにその瞬間にあったもの。

タイムラプスもそうだ。その瞬間に存在していたにもかかわらず、シャッター速度により消失したもの。

 

当たり前のようで、ものすごく不気味だ。

 

私を取り囲むように無数に存在する物質も、ほとんどは目に見えない。あまりにも微細だからか。。。

幽霊の存在も否定できないのは、それはそうだと思う。異次元ワールドも、私はあると思うのだ。

 

それだけ、私たちの感覚器官は限定的だ。他の哺乳類や、もっと他にも昆虫や魚たちがみる世界もそれぞれ限定的で、私たちはその世界を、少なくとも今はまだ、疑似体験としてではなく、自分の感覚として認識することができない。

 

映り込まないものを想い、時に空気がものすごく重く、息苦しくなる。聞こえないものを聞こうとして、平衡感覚を失う。

 

この世界には何があって、なにが見えていて、なにが見えていないのだろう。

すべてを感じることができるということもまた、きっと恐ろしく、キャパシティオーバーになるだろうけれど、あまりにも曖昧なこの現状にもまた恐れ慄く。

 

自分の存在の不確かさと共に、無数の可能性の隙間をみた気がした。

 

 

歳を重ねる心構え

まぁ、さほど若くはなくなってきたわけだが、比較的に若い層ということで、私が思うこと。


マツコさんがテレビで、ついていけないジジイとクーラーの話をしていたけれど、昔はクーラーなんてなかった耐えられた、なんてのは時代や気候にそぐわないから、それはごもっともであるなと思ったし、それは歳を重ねた人の大切な心構えであるなぁと、わたしも今後2、30年も経たぬうちに立派なババアになるので賛同したいけれど、その反面、ノスタルジーでものを語るのをやめようという考えには、なんとなく違和感がのこった。


わたしは年配の方々の昔はこうだったって話を聞くのは好きだ。問題は話し方だと思うのだ。

話し相手を考慮せず、自分の大げさな自慢話と今の批判、不満をぶちまける愚痴であれば、高校生だろうが、仕事の仲間であろうが、年代に関係なく不愉快だ。

それが目上であれば尚更、不快を表現することを憚るので募り募って、その人が嫌いになる。

 

高田純次さんの哲学にも、歳をとってやってはいけないことは「説教」と「昔話」と「自慢話」だと聞いたことがある。初めて聞いたときはその通りだなと思った。

 

そりゃ、なりふり構わずそんな話ばかり何度も言われたってこっちも困る。それぐらいの心構えでいいかもしれないけれど…

今はこうだよねぇ。でも昔はこうだったんだよ。こういうこともあったなぁーって。ノスタルジーに浸ることはいけないこと?

私の知らない世界を教えてくれているようで、私は好きだ。

だから、縮こまっていくように歳をとらないでください。

でも壁を作るように立ちはだからないでください。

どんな歳になっても、共生している以上、共有できるものは共有したいし、配慮を怠ってはならない。

 

まだまだ若輩者としては、先輩の昔話は、時には反面教師として、時間を使う以上何かを得るつもりで聴きたい。単なる愚痴のはけ口にならぬよう、こちらからも程よく頼り、時には意見を言おう。

少しずつ後輩が増える歳になってきて、慣習が必ずしも正しいわけではないことを改めて肝に銘じ、時には自らの過去を自らの手で否定せざるを得ないこともあろうが、どんな生き方も一種のお手本であると開き直って、惜しみなく知識と経験を共有しよう。

 

ある時は人生の先輩に、ある時は後輩になりながら、互いの利益となるよう支え合えたらいいと思う。

そうしていつも夢と思い出と反省を繰り返しながら、歳を重ねていきたいかな。

 

ホルモンは偉大だ。。と認めるしかない…

恐ろしきホルモンの話。。

 

ワレワレハ、ホルモンにシハイされている。。

 

私は女だから、こちらサイドのホルモンの話になるけれど、とにかく女性はこのホルモンにいちいち悩まされる。

 

ヒステリックになる理由もわからなくない。

なんせヒステリーの語源はギリシャ語の子宮からきているらしい。

 

けれどこれはきっとホルモンのせいだ。

それを理由にするなと思ってる人も多いと思うけど、こればっかりは本当に許してほしい。。

 

それ以外の時にも、子宮からでるホルモンには、特に影響される。一喜一憂するのよ。

私だってそんなこと言いたくないし、自分でもホルモンのせいだと気付きにくいから、自分を激しく責めてしまうし、いや自分のせいもあるのだけど、あぁホルモンバランスが悪いのか

とわかると少しだけ落ち着くのよね。

 

one of monthな事態だと思ってるけど、それ違うのよねぇ。

なんか気分がいいなぁとか、

すごい落ち込むなぁとか

1ヶ月かけてゆっくりとその波を感じる。

わかってるのとわかってないのとでは

自分の構え方からかわれる。

 

この感覚、男性も理解して!みたいな話はやっぱり尽きないけれど、これは女性同士でさえ理解し合う限界があるから、なかなか難しいとは思うのよ。

だから自分で自分の特性を理解して、特に身の回りの人には正しく伝えておくことが一番重要だと思うのよ。

 

私はひどい時は立ち上がれないし、涙止まらんし、視界おかしくなるし、ずーっとイライラしてるし、イライラしてる自分にまた落ち込むし。ぼーっとしていつも眠いようで、いざ休憩する時は全然寝られないし、やる気なんか全然でない。時に吐き気どころか、実際リバースする。頭ではわかってるけど、どうしようもなくて。頭も痛いして身体の節々が、熱があるときみたいに痛い。体重は1.5倍になったみたいだし、のろのろ動く。感情がないような顔して、ひどくやつれた顔をする。四面楚歌だと思い込むし、自分をうまくコントロールすることができなくなる。

 

どう対応してもらった時が一番楽だったかを覚えておくしかない。周りの人には正解がわからないから、それを後で伝えなくてはならない。

 

個人的にはあらゆる「見栄」のようなものをすべて捨て去らなければならない。

世間体やプライド

こんな格好したくない。

こんな表情したくない。

もっとちゃんとやりたい。

こんなところで倒れたくない。

迷惑かけたくない

 

→まぁいいか。なんとかなるでしょ。

 

これが誠に難しい。気心が知れた人たちのあいだなら大丈夫かっていうと、そういうもんでもなかったりする。

 

これはおそらくパニック症状にも似ているのではないかと思う時がある。

まぁいいかと思えるように、なんか起きてから考えよう。そう言い聞かせるしかない。

 

プロゲステロン

プロスタグランジンに

エストロゲン

セロトニン

やつらと友だちになるか、さもなければ、うまく付き合う術を身につけなければ。。。