私の好きな名言(随時追加)

◆人間が創造できることは、人間が必ず実現できる

ジュール・ヴェルヌ

 

◆巨人の肩の上にのる矮人

―ベルナール

 

◆神さま、死の間際になって、やっと気づきました。あなたはそもそも生きたことがおありではなかったのですね。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

 

◆幸福になる秘訣は、幸福を求めて努力することではなく、努力そのものに幸福を見出すことである。

アンドレ・ジットー

建設か破壊か

さて、今年もまた国際女性デーが過ぎ去っていたので、全体的にふっと思うところを漠然と吐き出してみる。


女性かどうかに限らず、最近は固定観念に縛られないことや、様々なところでよりフリーなスタイルが認められつつある。

喜ばしいことだ。


ただ、その度に思うのは、

そこもまた強い意志の人の思いによって左右されてないかなぁってこと。


自由ってすごく難しいと思うんだよね。

うちの方針はものすごく自由だったから思うのだけど。


とりあえず言われた通りやってみて、違かったらその都度変えてみたり、選択肢があった方がずーっと楽だし効率的だと私は思うのです。

つまり、単に今自分を縛り付けている性別差などの視点や偏見や規定を取っ払うことに尽力するよりも、多少偏見的でも、まずはそれなりにルールはルールとしてある、もしくはあった意義も認めつつ、イレギュラーを拡大していくくらいがいいと思うって話。


もちろん時に起爆剤も大事だとは思うのだけど…

OKわかった、じゃぁはーい、なんでもいいよぉ~って言われたら怖くない?

無責任だって思う?

だっていきなり自由を許したら、それもまた管理する側だって大変だよ。

誰がどうやって統制するの?

それって誰にも頼れないってことなんだよ?

自ら律しなきゃいけないし、

人と比べてはいけないし、

正解かどうかもその度に違うことになる。

自らの自由を認めるということは、

他人からの批判や意見もキッチリと自己で受け止めなければいけないってことになる。

耳を澄ませばの雫のお父さんも言ってた。

何が起きても、誰のせいにもできないからねって。

その通りだと思う。


生き方は、もちろん自由だ。

女性の権利も高らかに唱おう。


だけど、今まであった、私たちを囲う檻や柵が、必ずしも私たちを閉じ込めるためだけにあったわけではなく、時に守り、時に繋がりを作り、時に武器となり、利があったことも認めた上で、

自らの意思で柵を飛び越え、防具を身につけて進む必要がある気がするのです。

いや、単身である必要もなく、部族ごとに移動してもいいし、新しい柵を増築することもいいと思う。

だけど、いきなり全会一致のように柵をぶっ壊したりしないで欲しいなって。まだ覚悟できてない人も、そっちに行きたくない人もいるかもしれないなぁって。野ざらしになってしまうよ。


不満なんていくらでもある。

言い出したらキリがない。

ただの不満だと無駄な批判を浴びない為にも、私もいたずらに何かを嘆くことなく、何かの代表としてでもなく、あくまでも私の意思をもって、より自分自身納得できるよう、自分が持てるだけの能力を、出来るだけ上手に使って、楽しく生きていきたいなって思う。


そんで多くの人が、くすぶっている能力を、恥じることなく、弾圧されることなく、伸びやかに広げることが出来るようになれば良いな。その世界がどんなものなのか、うまく想像できないけれど、きっといい社会だと思うんだ。そうじゃないだろうか……。

 

映り込まないものと感覚世界

スキャナーの上を素早く私の手が通る。プレビューには映らない、確かにその瞬間にあったもの。

タイムラプスもそうだ。その瞬間に存在していたにもかかわらず、シャッター速度により消失したもの。

 

当たり前のようで、ものすごく不気味だ。

 

私を取り囲むように無数に存在する物質も、ほとんどは目に見えない。あまりにも微細だからか。。。

幽霊の存在も否定できないのは、それはそうだと思う。異次元ワールドも、私はあると思うのだ。

 

それだけ、私たちの感覚器官は限定的だ。他の哺乳類や、もっと他にも昆虫や魚たちがみる世界もそれぞれ限定的で、私たちはその世界を、少なくとも今はまだ、疑似体験としてではなく、自分の感覚として認識することができない。

 

映り込まないものを想い、時に空気がものすごく重く、息苦しくなる。聞こえないものを聞こうとして、平衡感覚を失う。

 

この世界には何があって、なにが見えていて、なにが見えていないのだろう。

すべてを感じることができるということもまた、きっと恐ろしく、キャパシティオーバーになるだろうけれど、あまりにも曖昧なこの現状にもまた恐れ慄く。

 

自分の存在の不確かさと共に、無数の可能性の隙間をみた気がした。

 

 

歳を重ねる心構え

まぁ、さほど若くはなくなってきたわけだが、比較的に若い層ということで、私が思うこと。


マツコさんがテレビで、ついていけないジジイとクーラーの話をしていたけれど、昔はクーラーなんてなかった耐えられた、なんてのは時代や気候にそぐわないから、それはごもっともであるなと思ったし、それは歳を重ねた人の大切な心構えであるなぁと、わたしも今後2、30年も経たぬうちに立派なババアになるので賛同したいけれど、その反面、ノスタルジーでものを語るのをやめようという考えには、なんとなく違和感がのこった。


わたしは年配の方々の昔はこうだったって話を聞くのは好きだ。問題は話し方だと思うのだ。

話し相手を考慮せず、自分の大げさな自慢話と今の批判、不満をぶちまける愚痴であれば、高校生だろうが、仕事の仲間であろうが、年代に関係なく不愉快だ。

それが目上であれば尚更、不快を表現することを憚るので募り募って、その人が嫌いになる。

 

高田純次さんの哲学にも、歳をとってやってはいけないことは「説教」と「昔話」と「自慢話」だと聞いたことがある。初めて聞いたときはその通りだなと思った。

 

そりゃ、なりふり構わずそんな話ばかり何度も言われたってこっちも困る。それぐらいの心構えでいいかもしれないけれど…

今はこうだよねぇ。でも昔はこうだったんだよ。こういうこともあったなぁーって。ノスタルジーに浸ることはいけないこと?

私の知らない世界を教えてくれているようで、私は好きだ。

だから、縮こまっていくように歳をとらないでください。

でも壁を作るように立ちはだからないでください。

どんな歳になっても、共生している以上、共有できるものは共有したいし、配慮を怠ってはならない。

 

まだまだ若輩者としては、先輩の昔話は、時には反面教師として、時間を使う以上何かを得るつもりで聴きたい。単なる愚痴のはけ口にならぬよう、こちらからも程よく頼り、時には意見を言おう。

少しずつ後輩が増える歳になってきて、慣習が必ずしも正しいわけではないことを改めて肝に銘じ、時には自らの過去を自らの手で否定せざるを得ないこともあろうが、どんな生き方も一種のお手本であると開き直って、惜しみなく知識と経験を共有しよう。

 

ある時は人生の先輩に、ある時は後輩になりながら、互いの利益となるよう支え合えたらいいと思う。

そうしていつも夢と思い出と反省を繰り返しながら、歳を重ねていきたいかな。

 

ホルモンは偉大だ。。と認めるしかない…

恐ろしきホルモンの話。。

 

ワレワレハ、ホルモンにシハイされている。。

 

私は女だから、こちらサイドのホルモンの話になるけれど、とにかく女性はこのホルモンにいちいち悩まされる。

 

ヒステリックになる理由もわからなくない。

なんせヒステリーの語源はギリシャ語の子宮からきているらしい。もちろん誤解だったわけだけど。

けれどこれはきっとホルモンのせいだ。

それを理由にするなと思ってる人も多いと思うけど、こればっかりは本当に許してほしい。。

 

それ以外の時にも、子宮からでるホルモンには、特に影響される。一喜一憂するのよ。

私だってそんなこと言いたくないし、自分でもホルモンのせいだと気付きにくいから、自分を激しく責めてしまうし、いや自分のせいもあるのだけど、あぁホルモンバランスが悪いのか

とわかると少しだけ落ち着くのよね。

 

one of monthな事態だと思ってるけど、それ違うのよねぇ。

なんか気分がいいなぁとか、

すごい落ち込むなぁとか

1ヶ月かけてゆっくりとその波を感じる。

わかってるのとわかってないのとでは

自分の構え方からかわれる。

 

この感覚、男性も理解して!みたいな話はやっぱり尽きないけれど、これは女性同士でさえ理解し合う限界があるから、なかなか難しいとは思うのよ。

だから自分で自分の特性を理解して、特に身の回りの人には正しく伝えておくことが一番重要だと思うのよ。

 

私はひどい時は立ち上がれないし、涙止まらんし、視界おかしくなるし、ずーっとイライラしてるし、イライラしてる自分にまた落ち込むし。ぼーっとしていつも眠いようで、いざ休憩する時は全然寝られないし、やる気なんか全然でない。時に吐き気どころか、実際リバースする。頭ではわかってるけど、どうしようもなくて。頭も痛いして身体の節々が、熱があるときみたいに痛い。体重は1.5倍になったみたいだし、のろのろ動く。感情がないような顔して、ひどくやつれた顔をする。四面楚歌だと思い込むし、自分をうまくコントロールすることができなくなる。

 

どう対応してもらった時が一番楽だったかを覚えておくしかない。周りの人には正解がわからないから、それを後で伝えなくてはならない。

 

個人的にはあらゆる「見栄」のようなものをすべて捨て去らなければならない。

世間体やプライド

こんな格好したくない。

こんな表情したくない。

もっとちゃんとやりたい。

こんなところで倒れたくない。

迷惑かけたくない

 

→まぁいいか。なんとかなるでしょ。

 

これが誠に難しい。気心が知れた人たちのあいだなら大丈夫かっていうと、そういうもんでもなかったりする。

 

これはおそらくパニック症状にも似ているのではないかと思う時がある。

まぁいいかと思えるように、なんか起きてから考えよう。そう言い聞かせるしかない。

 

プロゲステロン

プロスタグランジンに

エストロゲン

セロトニン

やつらと友だちになるか、さもなければ、うまく付き合う術を身につけなければ。。。

 

 

国際男性デーは11月19日だそうです。

3月8日。またIWDが通り過ぎたので、

今一度女性について考えてみたんだ。

 

世界的にみたら、やっぱり問題は山ほどあるだろうし、権利を主張する必要があるもの、問題自体が気づかれず隠れてしまっているものたちが、ボコボコと音を立てるように地表から少し顔を出す。問題が問題であると認識されることは良いことだと思うけれど、そんな中でも、やり方に違和感を感じることがある。

 

女性が活躍している、女性が引っ張っていると言ったポジティブに聞こえる表現が、実はあまり好きになれない。曖昧な表現だし、頑張っている女性がいるのだろうけれど、それはその人の成果だし、「女性」というレッテルのようなのが逆に目立つ。まぁ…所詮は考えすぎなんだろうけど。

 

女性の活躍を数や指標、順位なんかで表したのを前面に打ち出すのも好きになれない。わかりやすいとは思うけれど、大切なのはそこに出てくる数字ではなく、内容だと思う。数字は嘘をつかないかもしれないけれど、数字はコントロールが簡単だ。増やせば見栄えが単純によくなる。でも中身が付いて来ていないこともあるし。

 

世界基準を揃える必要もないと思う。イスラム教は女性に厳しいといった印象がある一方、ある研究ではコーランは世界で初めて女性の権利を謳った宗教だという人もいるみたいだし。

そりゃ国際社会だから影響されるし、されて然るべきだと思うけど、文化も環境も違うし、経済も政治も違うのだから、その国の中の最善と、差異の共有、または交流における妥協点が大事だと思う。

 

じゃぁ女性って性について考えれば…

やっぱり生まれ持って出てきてしまった性別は、一種の個性であり、特性であるに過ぎないなということ。顔やスタイルが良い子はモデルをやるかもしれないし、運動ができる子はスポーツ選手になるかもしれない。頭が良ければ学者になるかもしれないし。それはそれぞれみんなの能力で、性別もその1部だと思うんです。その個性は良くも悪くも影響力が比較的大きいということ。

だから、男女差のある職業があるのはしょうがないし、わざわざどんな場所でも平等に男女がいる必要はないと思う。大切なのは機会がひらけていることかな。無理に結果における数の平等をとる必要なんかない。

 

最近じゃ、アンチフェミニズムを唱える女性も増えているらしい。なんだか本末転倒?なんというかたぶん、単に捉え方とか実際に行われてるやり方への反発ではないかと思うんだ。

時代が変わっていくのだからフェミニスト的なやり方も変化していく必要があるのかなと思う。

 

せっかくの国際女性デーなのだから、世間への不満や、他人からの視点よりも、女性たち自身が女性であることを誇れる日であればいいなぁと思う。

女性バンザイ!わたしバンザイ!

女性らしさとか、自分らしさとか、もうほっとこ。

大変なこともあるけど、すごいぞ!偉いぞ!

そうだこんな日には

自分に、女性に、花束を贈ろう!

 

さて、11月19日は国際男性デーだそうだ。

もっとそっちの知名度もあがるといいね。

 

 

多様性に潜む最もらしい攻撃性

多様性とは今ではもうほんとに聞き慣れた、真新しさもない、比較的重要な価値観である。

…ように見える。

 

もちろん、言葉の意味をそのまま解釈すればそうかもしれないし、実際そうなのかもしれない。

 

ただ、私は多様性が多用されるたびに、違和感を感じる。

 

「多様性」という盾を武器にとって、「既存の価値観」を攻撃しているように見えるのです。

 

それの何がいけないの?と思う人もいるかもしれませんが…

 

そもそも、多様性やダイバーシティという考え方は、互いの価値観を尊重し、受容し、更なる価値観の創造という考え方だと私は認識しています。

 

それは、もっと自分自身に密接な、血肉となる防具というか、己自身を形作るものであって、自分の体から離れた、武具ではないのではないかと。

 

つまり、あなたは例外です、という人は存在しなくて、あなたのどんな斬新な価値観も、どんなありふれた価値観も、非難されるべきものではなく、尊重され、その上で多くの人が採択するものなのか、共存する社会の上で、どう享受されるべきかを考える必要があるということで、互いの価値観を壊すためのものではないということです。

 

既存の広く認知された価値観を強要するという考え方にはもちろん反発を覚えるでしょう。

 

ただ、芸術や、その他個人の主張の場である作品の数々や、既存の価値観に限りなく近い価値観を持って生活している人たちを非難するのは、それこそ、多様性に反しているのではないかと思うのです。

 

多数派に属さず生活してきた、または生活しなければならない選択をとらざるを得ない方からしたら、型にはまった価値観はできるだけ無くなって欲しいかもしれません。

 

私も既存の価値観が正しいと思っているわけではないし、反感を覚えるような当たり前が溢れているのも確かです。ですが、そこにだってそれなりの価値はあると思っているのです。

長い年月をかけてその場に君臨し続けてきた、そのパワーたるは、なんとも凄まじい。

 

だからこそ、恐れおののき、脅威であり、その場からなんとしてでも引きずり下ろしたいとさえ思う。

 

多様性という武器を手に取った、少数派と名乗る、個々人の集まりである大規模な無所属の多勢が、たったひとつの過ちやたった一つの主張を手玉にとって、城を囲んだ総攻撃である。

 

大切なのはたぶん、押し付けないことだ。だから私のこの感情も決して押し付けてはいけないのだと思う。

憤りや不安、悲しみや反感をもつのは、感情だものしょうがない。冷静に判断するのは、きっともの凄く難しい。ポッと出のまだ身に染み込んでいないダイバーシティなんて逆に押し付けられたって、その対応もまた難しい。

 

けれど、端を発したように投げつけられる言葉たちはきっと、傷つけ合うだけで、新しい価値観は生まれないように思うのです。

 

だから、ここらで少し一休み。

多様性ってのが、誰もが集まりたくなるような、春の優しい木陰のような空気感であればいいなと思う。