同窓会という時空と現実の瞬き

私は人の幸せを幸せに思いたいし、思おうとしてるつもりだ。

うん、「している」というほど恣意的でも、無理にでもないのだけれど、少なくともふんわりと広がる緩やかな温かさと、幸せを分けてもらえてはいる。

けれどやはり、その温かな湯船からあがると、嫉妬や、焦燥や、空虚さという好ましくない感情が私を襲うことがあるのだ。

 

古くからの友人たちが、何にも囚われることなく当たり前に日々会うことが、少しずつ、少しずつ難しくなっていくのを、改めて感じざるを得なかった同窓会。

 

家族がいる者、結婚する者、仕事がある者、海外に行く者。

幸せで充実した素敵な理由が、彼らを私から遠ざける理由として聞こえてしまうのであった。

 

これはきっと私がまだまだ自分の人生を使いきれていないのだと、自分に振り返り思い直すのだが、ぷつりと針で刺したような小さな穴から、冷たい風が流れて来る気がした。

肌寒い。

隙間風は、気にしなければ気にならなかったはずなのに、気になり出したらなかなか無視できなくなる。

 

思い出に浸っているだけなんだろうな。

小さな頃、白髪の混ざった大人たちが、少年少女のように笑う飲食店の一角が、なぜか時空を越えているようにみえたよね。

懐かしむ思いと、その戻らない時間にほんの少し触れたから、切なさを覚えただけなんでしょ。

 

けれど、誰かの代わりを誰かに託すことなんてできないし。いい思い出だったわ。なんて彼らとの出会いを単なる過去に終わらせてしまいたくないし、終わらせないでと願ってしまう。

ワガママだからさ。1度繋がったものを、1度触れた紐の先っぽを、放してなるものかと。

こっち向いてよって。。私を忘れないでって。

口に出さずに胸が詰まった。

 

そうして気づいたのです。

あぁそうか、こうやって私は昔の自分と少しずつお別れをしなければいけないのだなと。彼らとではなく、昔の自分と。

これはきっと、過去の私が消えて逝く冷たさなのだと。

何気なく生きている毎日も、また知らず知らずのうちに今日の自分を終えて逝く。

終えた私が、今の私に置いてかないでと縋るんだ。ねぇ、一緒にいようって。こっちは幸せだよって。

けれどそれはもう私の亡霊で、だからホントはとても冷たくて、怨念が私を包み、人の幸せを妬み、哀しさを植えつける。

 

どうしたもんかな……

とにかくもう、今を、一瞬を、もっともっと輝いて生きなくては。そうやって、その一瞬を燃やすことで、私は生きる為の暖を取り続けなければ。

そうでもしないと、昨日の私が、そして昔になっていく私たちが報われない気がしたんだ。

とにかくもう、今を、今の私は、幸せだと叫び続けたい。

そうして素直に、心から人の幸せを喜びたい。

逢えなくなったっていいんだって。

私たちはいつも一瞬の強い光だったんだからって。なんてさ、思えるような人になりたい。

 

皆勤賞という弊害という考え方という責任転嫁?

皆勤賞を廃止しようという時代の流れがあるようです。
日本社会的に、有給休暇を使わない、休みにくい雰囲気を助長しているからみたいです。
休まない=偉いという感覚を払拭したいみたいです。


その感覚を他人に強要するのは違うとは思うし、どうも賛成派が多いようですが、なんでわざわざ皆勤賞を廃止する必要があるのかと、私などは思ったりしています。

廃止を反対したいというよりは、それにそんなに意味があるのかなと、もう少し詳しく聞きたいのです。

 

主人公を特定の子にしない舞台劇に
1位を決めない運動会。
競争も賞賛もされないのがいいのでしょうか。
私の感覚がずれてるのでしょうか。

 

多義性を重んじるなら、みんなそれぞれ褒めてあげても良くないですか?
元気が取り柄の子とか、いや病弱だからこそ休まずに行こうとした子を、最後の最後に表彰することがいけないことですか?

 

最後までやり抜くこととか、頑張った過程とかそんなことはそれぞれの想いがあると思うし、個人的にはどうでもよくて…

皆勤賞は単なる結果だと思うんですよね。だってどんな賞だって、貰えなかった子が頑張ってなかったわけではないと思うんです。


休んじゃいけないなんて、学校も言ってないですよね?卒業単位とりゃいいわけでしょ?

そういった意見の方は、皆勤賞を取った方なのかな?取れなかったけど、強制されてた人なのかな?

大学時代も皆勤賞だったのかな?休まずに授業受けてた?あぁそっか、皆勤賞ないから休めるのか。なるほど……。

 

じゃぁ、大人になって休まなかったねぇ、偉いねぇって褒められたいのかな?大事なのは休まないことじゃなくて、結果出すことでしょ?

みんなはなんで休めないのかな?褒められたいから休まないの?迷惑かかるとか思うからのほうじゃないのかな?学校休んだら誰かに迷惑ってかかったっけ?

社会人のシステムと学生の時のシステムってちょっと違くない?

 

皆勤賞が目的になっても、それはそれでまたいいとは思うんです。それで学校行きたいって思えるなら、それでもいいんじゃない?行きたくない子が多い時代に、少しでも理由があるなら、それでもよくないですか?

 

皆勤賞には、意味がないんだそうです。子どもの頃に表彰されたあらゆる中でも、最もメリットがなく、むしろやっぱり休めない社会を作る弊害なのだそうです。

 

確かに今後に活かせるようなメリットないかもしれないですね。でも思うのは、そもそも無意味なものは表彰してはいけないのでしょうか。

正直私は、小学生の時にもらった賞は、現在ほとんど活用などできてないと思います。そもそも小学生くらいの時にもらった賞なんてそんなもんではないのでしょうか。いや、というかそんなん言い出したら巷に無駄な賞なんて山ほどありません?

 

作文の賞をもらった子は物書きに?

それって学習障害の子を非難してるの?

絵画の賞をもらった子は絵描きに?

絵が下手な子はなんの才能もない子?

持久走の賞をもらった子はマラソン選手に?

運動神経が悪い子はイジメられる?

合唱コンクールの金賞とったら歌手に?

歌が下手な子は歌ったらダメなの?

皆勤賞をもらった子は皆勤ワークマンに?

…………

表彰に意味や価値を付加させられるのは本人の考え方次第だと思います。どんな立派と言われる賞だって、使い方次第、アピール次第じゃない?

 

なんかやったら、結果褒められちゃった、

やっぴーくらいな感じ。

それがなんか個人的に頑張ったものなら、それぞれの賞を貰ったっていうだけで、自分の能力とか頑張りとかよりも存在を肯定されたみたいで嬉しかったけどな。

 

単に皆勤賞廃止ってのはさ、

じゃぁめんどくさいし、廃止!

って言っているようにみえてしまうのです。そうじゃないとは思うけれど…

 

そうでないとしたら、皆勤賞のシステム少し変えてみるとかではダメなのかな?熱がでて休んでも公欠にしてあげたら?社会人の有給システムみたいな。それじゃホントに休まなかった子がかわいそう?嘘ついてまでそんなのに必死に皆勤賞欲しいならあげれば?だって皆勤賞に意味ないんでしょ?意味ないならあげてもよくない?むしろ今後有給をうまく使う練習ができるよ。うん、そのほうが有意義じゃない?


高校くらいからは課外授業や認定単位システムみたいの導入するのは?
いじめられてたり、学校行きたくなかったり、すでに将来の夢があってもっと関心のあるものに使える時間を作ってあげるのは?


そもそもね、家族旅行とかで学校休んでる子は悪でしたか?私は羨ましくてしょうがなかった。行けるもんなら行きたかった。ディズニーランド行ってきたぁってお土産くれる子、嫌われてた?休むのはイケナイこと、なんて感覚、そん時も持ってなかったと思うんだよなぁ。

それにさ、偉いか偉くないか、じゃなくて
単純に休まないって結構大変だと思うんだよね…。行きたくないとかってあるじゃん。友だちと喧嘩しちゃった時とかもあるじゃん。体調悪いときも、嫌いな科目があるときも。でも全部、なんとか乗り切ってきたか、まぁそういうことが無かったか。そりゃそれでハッピーラッキーすげーじゃんって。運がいいのもすごくない?

 

皆勤賞は絶対残すべきだ!って主張まではないけれど、私はただ、褒めてあげる機会を減らすことにそこまで重要な意味があるのか、と思うのです。

 

休めない社会人は皆勤賞貰った人たちなわけじゃないと思うんです。だって私の学校では1年に2、3人しか出てなかった気がするの。
つまりさ、そんなに大量の休めない人は生産されてないはずなんだよ。そうじゃない?


つまり、根本的な感覚の問題でしょ?

それ、皆勤賞の所為にしてないですか?

って思うのです。


なんで素直に、休まなかったの?すげーって言えないんだろ。

学校なんてそもそも行かなくたってどーとでもなるという個人的な意見がある中で、行った子におつかれさまぁーみたいのあってなにがいけないのか、と。

 

賞賛するに値しないってことなのかな。

なに毎日学校きてんだよってなるのかな。

ばかみたいなのかな。

誰かを傷つけるのかな?

休まないことは悪なのかな。

 

廃止です!皆勤賞は害です!って私はあまり直結しなくて…悪い面もあるのかもしれないけれど、それは皆勤賞が悪いの?その表彰の仕方とか、取り組み方とか、別のところにあるような気がする。そしてもっと、休めない日本人性を変える方法あるんじゃないかってことを言いたかったのでした。

 

いろんな意見の人がいると思うけど、

皆勤した方々には、賞とか無くなって構わないから、とりあえず私からは

すげーね!っと伝えたいです。 

学問と科学信者

日本人はあんまり宗教には興味ない人が多い傾向にあるし、なんなら禍々しいものだと思っている人さえいると思うのです。

 

宗教って、結局は人の信念なわけで、拠り所となるものじゃないですか?と、私は思っているのです。

ニーチェによって神は死んだと宣言されたけれど、私はやっぱりあると思うのですよ。漠然と。…などと、私は宗教をとやかく言いたい訳ではなくて…。

 

今の人たちの多くは科学教なのではないか

と、思ったのです。

かく言う私もそうなのではないかと。

 

宗教に関してはとても興味があるのですが、どうもどれもストンと落ち着かず、どの宗教もそれなりに素敵なことを言っているし、

私は○○教だわ!とは言い切れないのです。

 

けれど私たちはたぶん皆、太陽は地球の回転から東から昇るものだと思っているし、1年は365日だし、夜に光る星々は「☆」なんかじゃなくて恒星だと知っているし、地球は丸くて、生命の進化論を信じてる。

インターネットも、電子機器も当たり前のように社会に溢れてる。

人間の構造もより深く理解され、医学が進歩し、移植も、義手義足も充実しつつある。そしていつでも自由に頭の中で考えることができるのです。

 

だけど、かつては地球が世界の中心で、地球は丸くないし、人間は神の子だったこともある。

1週間は必ずしも7日だったわけではないし、天文学の基本も違ってるし、そもそも1年は365日ピッタリになんかできてない。

箱に入れて温めたり、冷すことができて、遠方と連絡できるなんて、まるで魔法だ、呪術だ。

人間の肝心要は心臓よりもむしろ肝臓だったし、魂は脳の松果体にあった。

頭の奥から聞こえる声は、ダイモンの語りかけだったかもしれない。

 

神はいつも私たちの手の届かないところを知っているものたちだったよね。たぶんきっと。

でも今は、研究や実験、観察によっていつかきっと世界のあらゆることを知ることができる、と信じてはいまいか?

少なくとも私は信じているのです。

そして私は昨今、量子力学にはまり始めたのです。

量子力学が死後を含むこの世界をより鮮明に解明しようと、ずっと奮闘しているのです。なんとも挑戦的です。

 

量子力学というジャンル自体がまたこれが、不可解なことが多すぎて、私の頭なんかじゃ、なんてヘンテコなことを言っているのだと、日常生活ではなかなか掴めない感覚を訴えているのですが…

それでも私はその研究の成果を信じてしまうのです。

だからたぶん私は科学信者なのだなぁと思ったのです。

そうです、拠り所となっているのです。

なぜか勇気が湧いてくるのです。

 

しかし一方で、なぜこんな話になったのかというと、科学信者特有の疑うという性質が発動してしまったが故でございます。

なんとこの世界の当たり前を当たり前に受け入れていることかと、改めて驚いてしまったからであります。

 

しかし、どんな宗教にも救われない人がいるのだとしたら、どうか物理学や、化学、科学、医学に、生物学に触れてみてはどうかなと。表面でしか知らない情報がよくよく読んでみると、なんと神秘的なことか、とたまに私は思ってしまうことがあるのです。そして、のめり込んだらより研究を深めてくれないかな。

私や、その他多くの科学信者のために。

 

私ももし、いつか神的な研究が発表されて、その結果に触れることがあるならば、ちょっとだけ布教活動に参加してみたいなと思うのでした。

 

ちなみに今はロジャー・ペンローズさんの世界観が魅力的。なかなか理解しきれないけれど。

 

 

私の大事な「あいうえお-ん」

自己紹介とかで、ざくっと自分を表現するのに、四文字熟語とか、座右の銘とか、そういうのかっこいいなぁって思ってるんです。

けど、どーも私にしっくりこなくて

目標とか一年の抱負とかなんかそういう大いなることには向いてるかもしれないけど

そんなの簡単に決められないなぁ。って、思ってて。いい言葉はたくさんあるしさ。

似合う人いいなぁ、私も欲しいなぁ、でも難しいなぁって思ってたんです。

 

じゃぁ自分が大切なことって何かなぁ

って考えてたら。

なんか似たような発音の言葉が多いなと思ったから、あいうえお作文してみたんだ。

 

あ : 案(あん)

い : 因(いん)

う : 運(うん)

え : 縁(えん)

お : 恩(おん)

 

案 

大切なのは発想力と想像力に計画力。

自分の思いつき、インスピレーションは大切にしたいし、

それを実行できる力が欲しい。

 

因、

そのためには、どうしてやりたいのか、どうして欲しいのか、どうなりたいのか。

理由と根拠が大切。活力の源。

自分を自分たらしめるために必要な自分の所在を突き止めたい。結局いちばん私がほしいのは原因と理由。なんで?どうして?小さな頃からの口癖。

 

運、

どんなに実力があったって、運が悪いと報われないとも言う。

正直私は実力は伴ってないなと思っていても、うまくいっていることが何度もある。

運はすごくいい方だと思ってるんです。運にすがるのは違うと思うけれど、運は味方にしない手はない。

 

そんな運を運んでくれるのは、大切な周りの方々。どんな些細な関係も無碍にしたくない。

私の手元にある物や機会も一緒。

どんなものだってご縁があってのものなんだ。と信じてる。

 

けれど、過信してはいけないし、驕ってはいけない。いつも心には感謝を。ご恩を大切に。

物を大切に。

 

そーやって生きているつもりだし、

それを忘れずに生きたい。そして、ちゃんと全部手に入れたい。

 

そういう言葉のあいうえお。

私のだいじなあいおえお。

いつも心にはあいうえお〜ん!

 

 

 

記憶の改竄

学校の先生が昔、

自分が試合でもらったトロフィーをテレビの横にずーっと置いておいたのに、久しぶりに実家に帰ったらどこにもなくて、尋ねてみると、そんなものは元々ないと言われたらしい。

あんまり否定されたものだから、自分の記憶までも曖昧になって、思い込みなんじゃないかと感じ始めてしまった。記憶は自分だけでは成立できないものなのだ。

と、言っていたのを思い出す。

 

確かに、他者から与えられる間違った真実や、曲がった真実に影響され、記憶も改竄される。

 

それだけじゃない、自分が自分に与えた感覚が正当化され誤ったものまで正しいものだと信じ込む。

 

私などは、実際にはなかったという、お遊戯会の踊りと歌をありありと覚えている。

小さい時に刻み込まれた虚記憶。。

未だにその記憶が何によって形成されたのかは、わからないでいるし、私は今でもそのお遊戯会があったと思っている。根拠はないけど…

私の中にはそんな真偽の定かではない記憶が山程、それも人と共有できる記憶と同じ程か、時にそれ以上に鮮明に残っている。

 

夢もまたしかり。

私に与える虚記憶の源…。

現実離れしているようで、妙に設定のしっかりしたリアリティのある夢が多いもので。

どっかで帳尻合わせをしてるのだろう、

自分の記憶なのか、どっかの物語で読んだのか、映画とかでみたのか、話で聞いたのか、空想なのか、夢なのか……。

 

そんで、夢記録を一時期とってみたことがある。

これがまたややこしいことがおきる。

夢を再想起させると、記憶が固定化されるのか、余計現実と入り混じり初めて、現実と夢とが紙一重の気持ちの悪い浮遊感を味わったことがある。

 

だから私は人に夢日記は、あまりお勧めできない。

 

つまり、記憶ってものは人間のすごい能力だけど、記録能力と再生能力とがどうも別々に作動する上に、蓄積された記憶も他の脳機能とバッチリ提携結んじゃってるもんだから、もはやその抜群の能力を正確にコントロールするのは大変至難の技だっちゅー話です。

 

また、指向性なんていう脳の型番があるからますます記憶なんて信用できない。

過去なんていう、確かめられない痕跡的で曖昧な記憶などはホントに単なるストーリーだ。

正確に何かをそっくりそのまま記憶することなんてそもそも、この情報過多な世界の中でほぼ不可能だろうし。多面的に捉えるなんて尚更。

 

「今朝目覚めた私は、昨日までの記憶を全てもって、その瞬間に生まれていたのだとしたら。

そうでないとどうして言えるのだろうか。」

 

みたいな一節を高校の時に読んで共鳴したはずなのだけど、そんな記憶さえもすごく曖昧で。

エンデとかだったような気がするんだけどなぁ、それがなかなか見つけられないのです。

そんな文言なかったのかな…。

誰かと共有しとけばよかったなぁ。

記憶とは、今この瞬間に持ち合わせた、そして何かとの繋がりによって支えられているものなのかもしれないのです。

どこかで繋がれないかな、その本と。

 

 

 

 

 

躍動する文字

‪文字がさ、立つときありませんか?‬
‪うまく言えないけど。‬
‪3Dにみえるというか。‬

 

‪ただ文字を追いかけて、眺めるように読んでいる時は、規則正しくそこに並んで静かにしてるんだけどさ、‬
‪言葉の意味を理解し始めると、なのか、

動き出すというか、脈打つというか。‬
‪すくっとたって主張しはじめるというか‬
‪単語がアイデンティティを掴みはじめるというか。‬
‪私にもよくわからないのだけど。‬

 

‪昔、小説ばかり読んでたときは、たぶんそれがすごく普通だったんだと思うんだけど…‬
‪少しずつ大きくなって、いろんなジャンルを読んでみると、‬
‪面白いし興味深いはずなのに、‬
‪意味を理解しきれてないのか、‬
‪ボーッとして眠くなってくる。‬
‪昔みたいに主張してこない。‬

 

‪んで、あ!寝てた、しまった。‬
‪とかで何回か戻りながら読んでるうちに‬
‪文字が、こう、文字じゃなくて…‬
‪音として聞こえてくるというか。‬
‪なんか視覚的ではない何かになるというか…‬

 

‪ぁあ、そう例えば!‬
‪物語とかなら、わかりやすくて、‬
‪登場人物がいて、世界に潜り込んでくると‬
‪キャラクターがさ、自分の中で勝手にできてきて、意志を持ち始めて、‬
‪文字の裏というか、本の中で世界が踊り出して、「読む」というよりも、「居る」感じになる。‬
‪音は聞こえるし、世界は見えるし、匂いもするし、感情も大きく揺れるでしょ?‬

‪でも、そういう空間的な世界がない話には‬
‪そんなものないと思ってたのです。‬
‪たぶん、今までは。

 

‪でも、なんかこう‬
‪ん?ってさっきなって。‬
‪こりゃなんじゃ?って。‬
‪文字が滑りだすっていうのかな?‬
‪こういう現象なんていうんだろう。。‬

 

‪調べたら、ディスレクシアにおいてそういう現象があるらしいですね。‬
‪ただ、そういう物理的にというか、もっと感覚的なはなしなのだけど…‬

 

‪あ、そう、‬
‪こうやって自分でなにか書き込むときとか‬
‪自分の文字はすごく逆で‬
‪平面に縛り付ける感覚?‬
‪叩きつけられるというか。‬
‪だから、動かないの。‬

 

‪んー意味不明だ。‬
‪私もよくわからないし伝わらないかもしれないのだけど…。‬

‪というかそもそも文字ってなんぞや…。‬
‪不可解じゃー、不可解じゃ。‬
‪この呪文はなんぞや。‬
‪この現象はなんぞやー!!‬

 

‪ん?おいおい!‬
‪ちょっと興味深い本を見つけた!‬
‪何かわかるかもしれない!
現象学に、シュルレアリスムメルロ=ポンティまでいる!‬

よし!ここにきっとヒントがあるはず!

引き続き調査を続けるであります!

 

どこかにもきっと、同じような人がいるはず。

一緒に読んでみませんか?

 

‪『本を読むときに何が起きているのか』‬
http://filmart.co.jp/books/composite_art/honwoyomutoki/

人生の選択肢

結婚と出産は、男女を問わず

つくづく課題に出されてるし

私も気になっているせいか

ネットの記事が目につく。

 

結論から言えば、

私は結婚はどちらでも良いと思っているし、

出産はいつかは経験してみたいと思ってる。

 

けれど、私が気になるのは

自分の主張を展開するために、他の主張を非難、対比することでしか確立させることができないのなら、それは自分の主張の誤りや、負い目や弱みを本人が強く感じている、ということと同じに見える。

 

もちろん、主張は対比することで強化されるし、相手の弱みを突くことで踏み台にできることもあると思う。

でも他人に自分の人生における考えに共感してもらうことにどれだけの価値があるのだろうか。それこそ夫婦のように共に歩むと決めた者同士や、会社の意向とかの話し合いにおいては、建設的な意見が行われるかもしれない。

でも自分単体における人生においては少し違う気がする。

どうして他人の意見がそんなに気になるのか。

それは不安でしょうがないからだと思うのです。

 

誰もがみんな不安だから、いわゆる一般的な流れで生きていこうとするし、周りと波風たてない考えを保とうとする。そうやってうまく生きて行く。

友人や家族にもそうであって欲しいと望む。心配だし、他の対応がわからないから怖い。

ほんの少し人と違うと、みんなに指さされて、アーダコーダと言われる。

そうなると、不安だから、自分と似た人を探す。私だけじゃないと安心する。そう言って他人を例に出す。

 

でもみーんな違うわけだよ、パターンなんて。

大事なのは、なぜそうしたか、自分のことを納得させられるかということだけだと思う。

 

万が一将来子ども欲しかったなぁって思った時、その判断を誤ったと後悔することはないですか?

結婚はしない、1人で生きて行く、と決めたとして、後で寂しくならないですか?

思いもよらず子どもができてしまったとして、きちんとその子を育てられますか?

勢いにまかせて結婚して、その人をずっと愛して行けますか?

 

途中で信念が変わったって構わないと思うのよ、生きてるのだもの、時間が経って人に出会って環境が変われば、考え方だって変わる。

だけど、今この瞬間は、少なくとも後悔しないよ、と自分に言えますか?

 

そしたらさ、胸張って生きたらいいと思うんだ。どんな生き方したって、どーせ人に迷惑かけるわけだしさ。それはちゃんと理解するべきだと思う。

 

みんな自分の人生の経験談からしか話せないわけで、人があまり通らない道はみんな怖いとこだよって言いますわ。そりゃそーよ。

私だって、あなただって一緒でしょ?

攻撃してくる人だって一緒。

怖いよーって脅してくる人の気持ちも分かると思うんだ。

そうだよねぇ、とか笑ってたらいいじゃない?

 

似た人がいるのなら、美談を例にだすのではなく、失敗談をよく聞いた方がいいと思うのです。だっていいと思ってるからそっちいくのでしょ?そんないい話ばっか聞かなくたって、自分にとっていいとこであることは間違いないわけだから。失敗談をクリアする方法を考えた方が有意義だと思うの。そしてそれが、攻撃してくる人たちへの最大の防御になると思う。そんなリスクはとっくに知ってるって言える。

 

反対意見のある人には、逆にたくさん美談を聞いたらいいと思うの。正反対の人生を歩もうとしてる人なら、その幸せは、きっと手に入れにくいところにあるってこと、受け止めた方がいいと思うの。その覚悟があるってことでしょ?

 

お互いの人生をさ、感じられない喜びをさ、共有しようよ。共感しなくたっていいけど、分け合うことはできると思う。

私は全然違う世界で、違う人生を送ってる人の話、聞きたいな。

私が諦めちゃった先の話、聞きたいな。

さみしいなって思うこともあるし、間違っちゃったかなぁって思うこともあるけど、

私は自分に満足してるつもり。

そう思いたいし、満足してない部分はこれからなんとかして埋めていきたいって思ってる。

うまくできちゃいないけど、後ろ向きでネガティブでどーしようもないとき、そうやって言い聞かせてる。

 

政治的にとか、家系的にとか、財政的にとか

それなりにそれなりの意見がどうしてもあって、それはしかるべきだと思う。

それはそれで受け止めなくちゃいけないのだと思う。どうしてもシステムが気にいらないのなら、他にある既存のシステムの中に移動したらいい。逃げるのではなくて、1つの選択だと思う。

私たちは1人では生きていないから、集団の中でそれなりのルールや責任はあるはずだとは思うのです。

それに、システム上おかしい場合は、やっぱり個体に対してどんなに抗議してもしょうがないから、上を叩かなくちゃ。

自分独りだと思わないで。自分が思い立ったことなんて、他の誰かがとっくに考えてること。あとは行動してるかしてないかの差に過ぎないと思う。声をあげればきっと反応するから。

 

と、とやかく言ってみたが

強い口調の意見は、物議を醸すきっかけとなるから、そういう人も必要なのよね、きっと。

現に、私が影響されてるのだから。

 

ただ、私はそういう小さな世界の中で、

必要のない争いはあると思うのだ。

それはお互いが望まないカタチの、暖かな血の通った虚しい争い。

好きだから伝える言葉にも棘があるし、

大切だからと忠告することもあるとは思う、

だったら最初にそう伝えたい、そしてきちんと話を聞きたいんだ、そして私の話も聞いて欲しい。

そうじゃないなら、ホントにそれはただの戯言だと思う。食ってかかるに値しない弱き声。弱い者はよく吠える。

 

どうして、思い合っていてもなかなかうまくいかないのかな……。

そんな周辺でおきるイザコザに、

時に無性に苛立たしく感じるのでした。