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意思疎通のはじめ、疎通の意志表示

昼下がり、少し遅めの昼食を窓際の席で食べるのが好きだ。
天気を見たり、通り過ぎる人をみたり、

淡々とした時の流れに身を任せてるぜぃ

みたいな時間が好きだ。

 

通常はテレビか映画みたいに、ぼーと出来事を眺めているのだけど

ときたま、私に向かってアクションをおこす人が現れる。

 

小学生の社会科見学集団だ。

 

彼らは規則正しく並びながら

または、お行儀よくバスの中で座りながらも

それぞれの個性を存分に発揮し、

そして、団体としての個性も出しながら

目の前を通り過ぎる。

だから見てて微笑ましいし、どこか懐かしい。

思わず凝視してしまう。


すると、どーしてもその中の誰かとは目が合ってしまう瞬間がある。

お互いどーしていいかわからずにいると

向こうは何かに気付いたように

急ににこやかに笑いかけ、小さな手を大きく振ってくる。

 

そういえば、私にもそんなことをしたことがあったような気がするが…

その行動は周知に知られ、瞬く間に感染する。

気づけば、最初の子の周り4、5人も、まるで何かのゲームのように必死になって私に手を振ってくる。

思わず吹き出してしまった。

 

手を振り返すか躊躇してしまったので

彼らの乗るバスは、

信号を渡らざるを得なくなり

視界から姿を消していった。

 

まったく、なんで振り返さなかったのかと後悔が残った。

 

あんだけ無邪気に、手を振れた日を

私はすっかり忘れていた。

 

あの一瞬には、いろんなものが取り払われた、なにか疎通が行われたようにみえた。

ゲームになってしまってからは、私よりもきっとみんなとの繋がりを感じたことだろうけれど

あの時は、言葉でもない何かで

お互いにニヤッと笑いあって…

そして手を振ってくれたんだ。

 

小学生の頃だって悩みはいっぱいあったけれど

もっと物事を、ありのまま、あたりまえに

今よりももう少し素直に受け止めてた気がする。

その分、素直に傷つき、素直に喜んでた。

 

天皇皇后両陛下も、政治家も

なんであんなに手を振るのかな

と、思ってたけれど

手を振り合うってきっととてもほっこりする。

平和ってやつはこのことかもしれない

とさえ、思えた。

戦略的かもしれないけれど、

手を振るだけで「他人」じゃなくなれる。

ただの風景が、いきなり息を吹き返し、意志を持ち、「あなた」とか「君」とか1人の人になる。

友だちとかもそうやって作ってきたような気がする。

そんな感じ。

 

その男の子が私に教えてくれたことは

そういった、どうも言葉にし辛いけれど

素朴な感情だったと思う。

 

今度あったら、きっと振り返してやるのだと心に決めた日だった。

 




死ぬために今を唯ひたすらに生きていたい

そう言ったら凄い目でみられた。

おかしいらしい。

ちなみに前提として、私は死にたいわけではない。

激しく死にたくない。

死ぬから生きるのであって、

死なないならこうして生きてはこれなかったのではないかと思うのです。

死ぬからこそ今を必死に生きている、といえば聞こえが良いようですが、結局ほぼ同義ではないだろうかと思う。

 

例えば人生ってマラソンとかなんとか例えられるけど、マラソンを通して考えてみたんだ。

 

なぜ走るのですか?という問いにはたくさん理由をそれなりにつけれると思うけど

金メダル取るためとか、鍛えるためとか。

でもなぜ、スタートラインにたったのかは究極的にはゴールする為だと思うのです。

 

なぜ生きているのですか?という問いには各々理由をつくれるかもしれないけれど

なぜ、産まれたのですか?と言われたら、究極的には死ぬ為だと思うのです。

超えるべき山はあるかもしれないけれど、

死ぬ為に産まれたと思うのです。

生を成し終える為に生を始めたのです。

 

誤解して欲しくないのは、これは決して悲観的な話ではないのです。

私は常にそう思って生きているのですが

だからこそ今も生きることにすがって生きています。

 

一度だけマラソンに出たことがあるけれど、あの時の目標はとにかく完走することでした。

そんなことするのに意味があるのか

と聞かれると、確かになんの意味があったのかよくわかりません。

でも、スタートした人に対して、どうしてゴールに向かうのか?と聞く人はいますか?

その時もひたすらゴールを目指しましたし、そこには「なぜ?」がいらないくらいにすでに意味があるように感じました。

途中苦しくて辛くても本気でなんで走ってんだと、遅い私には幾度となく自問自答する機会を与えられます。

それでも行けるとこまで行ってみたいんだとそう思いました。

 

無理やりスタトートラインに立たされる人もいるのかもしれない。

そんなとき、そもそも立ちたいとも思わなかったレースに出なきゃいけないのはとても耐え難いと思う。無意味にも思う。

もうやーめた、て思うことも、惰性でやり遂げることもあってしょうがないよなぁって思ったりもする。

 

でもマラソンと人生で違うのはさ、

スタートラインにたっちゃったら、

テープを切ることがゴールなの。

そしてゴールのみならず、もはやスタートラインさえみんな違う場所なの。

せーの、でスタートしないから

みーんな違うレースにでて、

みーんな違うゴールに着く。

 

命が尽きるその時が、そのレースの必ずゴールなの。

 

ホノルルマラソンみたいなレースもあれば

東京マラソンみたいなレースもある。

山岳レースや、トライアスロンみたいなレースもあるかもしれない。

 

そう思うと、このレースにはそもそもライバルってやつぁ存在しない。

 

つまりこのレースにおける意義は

ゴールした時の満足感に他ならない。

 

短いレースを走り抜けることも、

長距離レースを走り続けることも

どっちも内容はそれぞれ大きく違うけれど

どっちもくだらなく思えるし、

どっちも素晴らしく思える。 

 

 死ぬその瞬間に

どれだけ自分に納得できるか

どれだけ笑えるか

どれだけ満足してるか

それだけな気がするんです。

 

走ってみないとレース内容も教えてもらえないし、いきなり道が崩れるかもしれない。

天候にも恵まれないかもしれないし

1日じゃゴールにつかないから持久戦を強いられるかもしれない。

途中で疲れて座り込んじゃうかもしれない。

でも「ゴール!おつかれー」って言ってもらえないから、まだとりあえずゴールまで向かわないといけない。

自転車使ってもいいよーってなるかもしれない。

ワープできるよーってこともあるかもしれない。

 

もうどーしよーもなくて、もうゴールにしちゃうかもしれない。私のゴールはココ。

もう十分って。

一応ゴールはここよぉーって、カーナビみたいな目的地線みたいのがあったかもしれないけど、あなたが言うならそこがゴール。

そん時は、誰がなんと言おうとそこがゴールなの。

 

寿命とかいう漠然とした名前のついた目的地もあるかもしれないけど

そこが必ずしもゴールじゃないのかも。

ゴールを教えてもらえないから、いきなり現れることもある。

ゴールが近づくとゴールテープが見えるときもあるかもしれない。

 

それでも…

やっぱり死に向かって生きるしかない。

だから目的地は終点でしょ?

どんな駅で止まろうとさ。

だから素敵な道を走りたいしできるだけいろんな景色がみたい。それだけ。それだけなの。

 

もちろん、人それぞれでいいと思うし

それぞれの意味や意義や目的を否定する気は全くない。

けれど私はそう思って生きてるの。

少なくとも今は。

そう思って生きるのが一番楽になれたし

一番のびのびできるし

いちばん…生きてる以上生きてていいんだと思えた。

自分のそれ以前も、それ以降も肯定できたし、一方で否定もできた。

一番可能性があったし、一番余地を残したし

一番しっくりきたし、一番確実だったし

そして、一番前を向かなければいけない理由ができたんだ。

 

誰もがみんなゴールテープをきれる

どんな形であっても。

そしてそれはなによりやっぱり尊い気がするんだ。

 

誰も教えてくれない答えなら

もう先に、私が私に答えを作ることにした。

もし答えが違っても、そのときに答え合わせしたらいい。

その時はどうか解説も一緒にして下さい。

そして劣等生な私に、教えを説いて下さい。

 

 

バーチャル車内面接

就活生が、面接官に聞かれたそうな。

 

バイトと正社員の違いはなんですか?

 

就活生は答えたそうな。

 

責任の違いです。

 

面接官は続けたそうな。

 

バイトには責任がないんですか?

 

就活生は口を閉ざしたそうな。

 

んー。うん。それでもいいんじゃない?とかも思ったり……。まぁでもその表現は確かに一番面接官の想定内の回答かもなぁ。。とか。

 

そもそも企業側はそれで何が問いたかったのかな。企業側への忠誠心?すぐに辞めないで欲しいから?

 

正社員ってお互いに支え合おうぜって関係でしょ?福利厚生とか手厚くサポートしてもらって、税金とかも代わりに収めておくよぉ〜みたいな。その分お手伝いたくさんしてねぇ。結構大変だから、他の仕事はあんまりしないでねぇ支障出ると困るしぃー。やるならちょっとだよ?

一方私もあなたのネームバリュー借りてやりたいことやらせてもらうよぉー。人もたくさん使えるしねー。成果がでたらご褒美ちょうだいねぇーって。

 

バイトって、お互いに便利に使い合おうぜって関係でしょ?

あぁここにこんな人いたらなぁ。

あ!人配置しちゃえばいいんだ!

これお願いねぇー。それだけやってもらえればいいからぁ。不具合あったら教えてねー。

おっけー、でもそれ以外の時間は好きにしていいよね?作業終わったら終了?

今後の仕事のためにも勉強もさせてもらっちゃおーみたいな。

 

バイトだって責任あるポジションの仕事はたくさんあるし、給料だってあがる。

正社員との違いってそんなに明確にしなきゃいけないのかな…。バイトから正社員抜擢的なこともあるわけだし。。。

あるとしたら、それはそれぞれの企業と個人の間にある契約上の問題で、どっちがどうとか、毎回同じものじゃなくて、お互いが求めるものによってかわるのかなぁって思ったり。お金とか時間とか。

 

私は、バイトのときも任された仕事を責任もってやってたつもりだし、正社員だからって急にこわばる必要もないのかなって思うの。

御社に正社員として応募したのは、御社の元で働くため、携わりたい企画があるため…とか?

あ、そうそう、なんでそこで働きたいのか、の方が問題じゃなくて?そこが聞きたい質問の本質なのかもしれない。

 

とか、悶々と電車に揺られながら

向かいに座る就活生の会話を聞きながら

空想の面接を繰り広げてみたりする。

私、結構面接好きなんです。笑

 

面接ってさ、受ける側だけの問題じゃないなって思ってるわけで

もちろん、こっちが出向いてるわけだけど

向こうが募集してきてるわけでしょ?

それなら私やりまーす!って手を挙げて

あぁ、君なら任せてもいいか

っていう関係じゃない?

 

こっちだって、それ相応の覚悟がいるけど

向こうだってそれなりに緊張するわけでしょ。

任せていいかなぁって。

 

私は面接完璧!いつでもOK!

とかいう感じでは全然ないし、ダメな時だってもちろんあるけど、でもなんとなーく今回は受かるかもなぁって分かる。

楽しい面接、また来たいと思える面接は通る。

 

結局、面接は私にとって「楽しい!」が全て。

 

面接対策…とか世には様々なセミナーやらがあるけれど

結局人間vs人間なわけだから

向こうにも「好き」て思ってもらったもん勝ちでしょ?

 

企業研究とかも大切だと思うけど

私は面接相手を好きになる方法が大切だと思うのよね。

 

就活は恋愛に似てるっていう人がいたけれど

全くその通りだなとつくづく思う。

そりゃー、第一印象とかさ、スペックとかさ、美男美女は有利に見えるよね。

でもさ結局付き合ってる人ってどんな人?

趣味があうなぁ、とか雰囲気がいいなぁっとか、なんとなく好きかもとか。

そんな会社と添い遂げて行けるなら、きっと幸せだと思うんだ。

 

逆に私は何で企業を選んでる?

大手だから?近いから?面白そうだから?

人に例えたら恐ろしい理由…そりゃよっぽどの技術がなけりゃフラれるわ。。

 

就活に感情持ち込むのはよくないって思うかもしれないけど、じゃぁそんな短い間で何がわかる?

 

私のお話しさせてもらった社長さんや、面接官の人は、ドアに入ってきてすぐわかるんだっておっしゃってた。

あ、うちに入ってくる子だって。

会社には会社の色があるし、愛されてる形がある。スペックが全てじゃない。

そもそも社会にはスペックがいい人ばかりじゃないのだから、多様性のある企業の方が強いように思う。

 

だから、否定されたわ。とか毎回フラれて落ち込むことはないと思うのよ。

相性の問題もあるわけだから。

 

ねぇだって地球上に企業はいくつあると思ってるの?35億……嘘。

でも実際上場の有無を除けば無数に存在するわけよ。

新しい世界みたくない?

 

あとは、どんなアプローチをするか。諦めないでアタックし続けるか、方法は無限大

 

だから、私は面接が好き。

多くの人に出会う機会をくれる。

本当に一期一会。

こんな機会でもないと話さないような初めて会った人たちと話すことができる。

向かい合ったあなたがどんな人か。

そこで知り合った人は、意外と今でも繋がってたりする。

 

そして、これから面接をしなければいけない人たちには、どーせやらなきゃいけないなら楽しむ方法見つけてみたらいいのになぁって思う。

 

さて、バイトと正社員は何が違う?

 

創造の世界

たまに、ぼーっと

みるでもなく窓外を眺め

ふと我に戻って

手元の携帯を手に取り画面をみつめる

 

ん???

なんで見えるのかな。

 

確かに視力は検査で1.5を割り込まず

一番下のランドルト環の向きもわかるほどに

眼はいいほうではあるけれど。

 

なんで、手前の窓は気にならないのかな

なんで、ボケないのかな

なんで、反射して映り込んでいる景色は見えないのかな

 

わざとどこにも視点が合わないようにしてみる。。

自分の鼻や、自分の髪の毛に視点を合わせる。。

 

それが常に視界に入っているはずなのに。

なのに私たちは入ってきている情報を都合よく修正する。

 

赤ちゃんは視力が悪いと聞いたことがあるけれど、視力が悪いんじゃなくて、近くのものがじゃまだったんじゃないかな。。
とか思ったりする。
私たちは普段自然に、目の前のまつげや鼻を無視して世界をみつめてる。

 

目が色を解釈できる範囲は極限られていて

目の端の方は白黒のはずなのに

目は常に微動して補足して調整する。

 

ぼーっとしてる時も「何か」に焦点を合わせて「見て」いるんだよね…

特に意識することなく何かに視点を合わせてる

 

昔国語の問題文にジャーナリストだか写真家だかの論文があったと思う。

その著者は、

客観性というものは存在しないって

彼らが書いているのは限りなく主観的なんだって

彼らは目の前で起きたことをすべて書き出すことはできない

彼らは主観的にそこにあるものを選び、抜き出してゆく

客観的とはそういうもので

この見えている世界は全部主観でしかない。

 

生命中心主義という宇宙論的な仮説がある。

ランザという人が言ってたらしい。

量子力学の世界でさえ、そんなこと言っちゃうんだと思った。

 

ざっくり言えば、

私たちに見えている世界は、

そもそも見ようとした見方でしか見えないってことなんだと思うの。

つまり、意識や知覚によって左右された世界に生きているということ。世界は全て精神構造を元に顕在しているってこと。

これは私の思考をサポートする都合のいい解釈かもしれないけれど。

 

よって、

人間が作り出した宇宙、世界でしかないんだってこと。

もっといえば、私たち本人が作り出した世界でしかない。

 

パラレルワールドだって死後の世界だってあるって言えちゃうらしい。

 

御都合主義も甚だしい。

だとしたらそりゃぁ世界は人間に都合よく見えるに決まってる。人間がまるで主権者にだってみえるさ。人間中心主義の言わんとしてることだってあながち否定できないってわけだ。

 

そんな創り上げられた世界に、

著しく主観的な世界で、

できるなら自分の能力も超えた世界もまたみてみたいけれど、それがもし難しいなら…

だとしたらまるでこの仮想現実のような中で、もっと自分の都合のいい世界を創ろう。

みんながみんな幸せになれる世界が己の精神構造の中に、常にきっと、存在してる。

 

小さい頃は神様がいてーー♪

きっとホントにいたんだとおもう。

まだ固体化していないたくさんの物質が、あの頃にはみえていたんだと思う。

またなれるかな、あの頃みたいに。

明日の朝は優しい気持ちで目覚めたい。

 

 

 

 

私にも言わせて。

3月8日、IWDの本日

なんだかSNSが騒がしそうなので便乗してみる。

女性の私にも言わせて。

 

某社のハッシュタグに巷でわちゃわちゃ。

言葉の選び方の難しさと

期待通りか否か、踊らされるかのようにムーブメントを起こしたコピーの影響力にまずは感嘆。そして私も波に乗せられてみる。

 

本題。

女性の私が今、思うこと。

 

まず、女性たち自身が

女、女子、レディー、ガール…

数ある性に対する感覚に過剰反応しすぎではないかと思うのです。

 

私も男ばかりの家で、男の多い環境で育って、女であることがすでに劣等感の要因で、不自由で、女らしさというレッテルを嫌ってた。

結婚とか妊娠とかネガティヴな印象が強くて、高校生まで制服以外にスカートなんて履かなかった。

今振り返れば、あれは誰にでも起き得る成長期の過程だったのかと思うけれど…

 

でも、いろんな出会いの中で少しだけ考えが変わってきた。

 

あ、わたし女属性なんだなって。

 

男とか女とか、そういう区別さえも嫌で、

みんな人間じゃんか、そんなので分けないでって。

そう思ってたけど…

 

ああもう私、どんなに逃げても生物的にメスなんだって。

そのコンプレックスに囚われてるだけなのかなって。

 

よし、じゃぁもう人間類女属性なら

アビリティ全部使ったろって。

一度全部やってから向き不向き、良い悪い、

合う合わない決めようって。

 

いろんな状況、感情、環境の人がいて

一概にはいえないけれど、

男やら女やら性を強く意識するということは、

その本人もまた自分自身に対して強く差別しているように感じたんだ。

誰かがじゃなくて、その向けられた言葉や行動をどう感じるか、その自分の捉え方なんだなって。

自分で自分の首絞めてるように感じるようになった。

 

スカートもはいた。

化粧もした。

髪を伸ばした。

女性の所作もしてみた。

 

最初は変な感じもした。

でも慣れると手の抜き方を知った。

場所も人も幅が広がった。

できない、じゃない。

やらない、の選択肢。

TPOで使い分けること。

 

ねぇ、権利があるなら使えばいい。

文句を言うくらいな、利用してやればいい。

したたかにいこう。

行きたい場所に手段がないならその時、声をあげようよ。

 

女子力とかを生んだのも女性

それらに縛られてるのも女性

それらにすがってるのも女性

 

女性専用車両だって

市場に溢れるレディースデーだって

いいじゃないか、あるものを存分に利用してやろうよ。

 

むしろ女性は恵まれてるとさえ思うの。

男性だと白い目でみられるような選択肢だってある。男性には選べない選択肢だってある。

 

男性たちの中に潜在的な女卑の感覚はあるのかもしれない。

じゃぁ、女性側には男性に求めるものは全くないですか?偏見はないですか?

大事なのはさ、互いに尊重することじゃんか。

一種の差別感情はしょうがない気もするのよ。

黙って受け止めること、聞き流すことが良いのではなくて、方法を選んで抗議したい。

男性、女性という偏見はそれでは止まらない。

どちらかが優位に立つことじゃない。

立場が逆になっては元も子もない。

文句よりも改善点を見出していきたいよ。。。

 

そんなことを悶々と考えてみた私も、

まだまだ差別だらけだと思うわけで。

毎度毎度アップデータしてこうと思っておりますのよ。ほほほほほほほ。

 

誰もがすでに小説家

小説より奇なり、とか

思い出の一ページ、とか

 

人間は、やたらと自分の人生を物語化するのが好きな生き物だとつくづく感じる。

おそらく人間が他の生き物より長けている能力は、この物語化にあると思う。

つまり、抽象を構造化し、具体化し、表現する能力。

文字や歴史、記憶、進化を生み出してきたのではないかとさえ思う。

 

しかし一方でその方法をうまく使えない、

もしくは使い方がネガティブだと

障害や摩擦も生じる。

 

ありのままを映し出す道具など

やはり存在しないと思うわけで。

写真だって絵画だって言葉だって

全部がホンモノの偽造品で、

全部がホンモノのモノマネだ。

 

漠然と感じるものや

確かにあるのに確かめられないものには

恐怖や無視、抹殺が行われる。

そうするとそれはますます恐ろしいものになっていく。

だから、時に怖くないように研究して

自分たちのゲンゴを用いて表現しようとする。

 

さて、

じゃぁ、私は誰で、一体なんのために産まれ

なんのために生きなければならないのか

どのように生きるべきなのか

どうしてこんなことをしてるのか

そしてどこにいくのか…

 

ふわふわと漂うモクテキのようなものは

まだなにもつかめないし

もしかしたら一生つかめない。

 

まぁそんなもんなわけで。

就活とか進学とかそんなときに自己分析したり

なにをしたいとかどんな人なのかとか…

結局描き方次第なわけで。

要はどんな人生を演じたいかってわけだ。

 

主演、私。

 

産まれが貧乏で…

なんて始まりの悲劇小説にも、または逆転巻き返しの喜劇小説にもなる。

 

ドラマとかみて、

そんなうまい話あるかよ

と思うことがあるけれど、

それはそんなうまい話を描いてるだけ。

結婚のような出会いも、大袈裟じゃなくて本当に運命というかすごい確率なわけだし

この星のその時代のこの生命の中の、人間という種族の中で男女の性を分かち、その時間のその場所で会ったって

それの確率ってどんなもんなんだろ。。。。

 

つまりあんたってすごいんだよ

とか言いたいわけでもなくて

 

私は、どうしようもなく私なわけで

苦しいこととか悲しいこととか山ほどあって

小銭拾うくらいの喜びしかない人生だったとしても、どこを切り抜いて生きていきたいかって話をしたいのです。

 

みんな辛いわけじゃん、たぶんなにかしら。

とりあえず生きてみてるわけじゃん。

だから、お願いだから好きなように描いてよ。

そしてその世界が納得いってないなら

世界から描きなおせばいい。

綺麗なとこだけ見てればいい。

自分の見えてる世界はきっと正しい。

けど全てではない。

描きなおそうともしないのなら、それはきっと悲劇小説の中の主人公に満足してるのよ。

それを認めなさい。

そしたらきっとまた違った話が見えてくる。

 

そうやって叱咤激励しながら今日も私は生きてみる。

 

 

未開の航路

あぁそうか。

コロンブスはすごいんだ。

改めて実感する。

 

SFの小説を読んでいた。

地球から離れて進む宇宙船の中

当たり前だった酸素や地面が揺らぎ

頼みの綱はその船でしかなかった。

設計主と整備士を信じるしかない。

どんどん地球が遠ざかっていく。

まだ見える、まだ見える。

…もう星屑の1つになった。

そこでは

心細さとともに常識が常識でなくなり

新しい常識とルールが生まれる。

 

時間の感覚も昼も夜もなく意味を持たない。

時計がなければ地球の時間もわからない。

そうか、地球上ですら絶対的な時間がなかったのかと思い知らされる。

過去や未来の感覚もない

今、今しかない。

目指す星があるはずだと信じて進んでいるだけだ。

 

現代で考えればそういうことかなと思った。

 

かつて地球が丸くなくて、

像に支えられたり、

亀に背負われたり、

星々は天井の模様だったころ

海の向こうはとてつもなく遠くて、

とてつもなく未知だったと思う。

 

コロンブスの時代はそこまで神秘的ではなかったはずだけれど

なんの頼りも保証もなくて、想定の島だけを目指して、ひたすらに進んでいて

突如として海の果てがあらわれるかもしれない。

そんな可能性は、まだきっとあった思う。

 

 

月に行ったアームストロングもしかり。

「未知」と「未開」との対峙にはどれだけの覚悟が必要なものか、と私はふと口を噤む。

 

生きるか死ぬかとかいう問題のみならず

「当たり前」や「常識」という地に足をつけ生活している時には想像できないほどの恐怖と、

それがどれだけ不安定であるかという事実で

身体中に冷たいものがはしる。

 

いつか、ずーっとずっと先に、

私がこの世にいなくなってしまうくらい先には

宇宙を、まるで飛行機のように飛び交う宇宙船ができるかもしれない。

月エレベーターも夢じゃないかもしれない。

でもきっと、その時にはまた、

未知と未開が、その先にはあって

そこに挑む果敢な勇者たちがいるのだろうなと思う。

 

規模は違えど、そんな勇者はそこら辺にもいっぱいいるのかなとも思えたりする。

私たちにとって今日も明日も

未知と未開で溢れている。

どこにいようと

なにをしていようと

だから自信をもったらいい

うん、自信をもとうっと。

 

私もまたコロンブス同様、

この人生の航路を切り開いているんだろうな。

あるかもしれない恐ろしい世界と、夢だったかもしれないほど不確かな過去たちといつも対峙しているのかな。

自分が信じたいものを信じて、目指したい星に進んでる。