バーチャル車内面接

就活生が、面接官に聞かれたそうな。

 

バイトと正社員の違いはなんですか?

 

就活生は答えたそうな。

 

責任の違いです。

 

面接官は続けたそうな。

 

バイトには責任がないんですか?

 

就活生は口を閉ざしたそうな。

 

んー。うん。それでもいいんじゃない?とかも思ったり……。まぁでもその表現は確かに一番面接官の想定内の回答かもなぁ。。とか。

 

そもそも企業側はそれで何が問いたかったのかな。企業側への忠誠心?すぐに辞めないで欲しいから?

 

正社員ってお互いに支え合おうぜって関係でしょ?福利厚生とか手厚くサポートしてもらって、税金とかも代わりに収めておくよぉ〜みたいな。その分お手伝いたくさんしてねぇ。結構大変だから、他の仕事はあんまりしないでねぇ支障出ると困るしぃー。やるならちょっとだよ?

一方私もあなたのネームバリュー借りてやりたいことやらせてもらうよぉー。人もたくさん使えるしねー。成果がでたらご褒美ちょうだいねぇーって。

 

バイトって、お互いに便利に使い合おうぜって関係でしょ?

あぁここにこんな人いたらなぁ。

あ!人配置しちゃえばいいんだ!

これお願いねぇー。それだけやってもらえればいいからぁ。不具合あったら教えてねー。

おっけー、でもそれ以外の時間は好きにしていいよね?作業終わったら終了?

今後の仕事のためにも勉強もさせてもらっちゃおーみたいな。

 

バイトだって責任あるポジションの仕事はたくさんあるし、給料だってあがる。

正社員との違いってそんなに明確にしなきゃいけないのかな…。バイトから正社員抜擢的なこともあるわけだし。。。

あるとしたら、それはそれぞれの企業と個人の間にある契約上の問題で、どっちがどうとか、毎回同じものじゃなくて、お互いが求めるものによってかわるのかなぁって思ったり。お金とか時間とか。

 

私は、バイトのときも任された仕事を責任もってやってたつもりだし、正社員だからって急にこわばる必要もないのかなって思うの。

御社に正社員として応募したのは、御社の元で働くため、携わりたい企画があるため…とか?

あ、そうそう、なんでそこで働きたいのか、の方が問題じゃなくて?そこが聞きたい質問の本質なのかもしれない。

 

とか、悶々と電車に揺られながら

向かいに座る就活生の会話を聞きながら

空想の面接を繰り広げてみたりする。

私、結構面接好きなんです。笑

 

面接ってさ、受ける側だけの問題じゃないなって思ってるわけで

もちろん、こっちが出向いてるわけだけど

向こうが募集してきてるわけでしょ?

それなら私やりまーす!って手を挙げて

あぁ、君なら任せてもいいか

っていう関係じゃない?

 

こっちだって、それ相応の覚悟がいるけど

向こうだってそれなりに緊張するわけでしょ。

任せていいかなぁって。

 

私は面接完璧!いつでもOK!

とかいう感じでは全然ないし、ダメな時だってもちろんあるけど、でもなんとなーく今回は受かるかもなぁって分かる。

楽しい面接、また来たいと思える面接は通る。

 

結局、面接は私にとって「楽しい!」が全て。

 

面接対策…とか世には様々なセミナーやらがあるけれど

結局人間vs人間なわけだから

向こうにも「好き」て思ってもらったもん勝ちでしょ?

 

企業研究とかも大切だと思うけど

私は面接相手を好きになる方法が大切だと思うのよね。

 

就活は恋愛に似てるっていう人がいたけれど

全くその通りだなとつくづく思う。

そりゃー、第一印象とかさ、スペックとかさ、美男美女は有利に見えるよね。

でもさ結局付き合ってる人ってどんな人?

趣味があうなぁ、とか雰囲気がいいなぁっとか、なんとなく好きかもとか。

そんな会社と添い遂げて行けるなら、きっと幸せだと思うんだ。

 

逆に私は何で企業を選んでる?

大手だから?近いから?面白そうだから?

人に例えたら恐ろしい理由…そりゃよっぽどの技術がなけりゃフラれるわ。。

 

就活に感情持ち込むのはよくないって思うかもしれないけど、じゃぁそんな短い間で何がわかる?

 

私のお話しさせてもらった社長さんや、面接官の人は、ドアに入ってきてすぐわかるんだっておっしゃってた。

あ、うちに入ってくる子だって。

会社には会社の色があるし、愛されてる形がある。スペックが全てじゃない。

そもそも社会にはスペックがいい人ばかりじゃないのだから、多様性のある企業の方が強いように思う。

 

だから、否定されたわ。とか毎回フラれて落ち込むことはないと思うのよ。

相性の問題もあるわけだから。

 

ねぇだって地球上に企業はいくつあると思ってるの?35億……嘘。

でも実際上場の有無を除けば無数に存在するわけよ。

新しい世界みたくない?

 

あとは、どんなアプローチをするか。諦めないでアタックし続けるか、方法は無限大

 

だから、私は面接が好き。

多くの人に出会う機会をくれる。

本当に一期一会。

こんな機会でもないと話さないような初めて会った人たちと話すことができる。

向かい合ったあなたがどんな人か。

そこで知り合った人は、意外と今でも繋がってたりする。

 

そして、これから面接をしなければいけない人たちには、どーせやらなきゃいけないなら楽しむ方法見つけてみたらいいのになぁって思う。

 

さて、バイトと正社員は何が違う?

 

創造の世界

たまに、ぼーっと

みるでもなく窓外を眺め

ふと我に戻って

手元の携帯を手に取り画面をみつめる

 

ん???

なんで見えるのかな。

 

確かに視力は検査で1.5を割り込まず

一番下のランドルト環の向きもわかるほどに

眼はいいほうではあるけれど。

 

なんで、手前の窓は気にならないのかな

なんで、ボケないのかな

なんで、反射して映り込んでいる景色は見えないのかな

 

わざとどこにも視点が合わないようにしてみる。。

自分の鼻や、自分の髪の毛に視点を合わせる。。

 

それが常に視界に入っているはずなのに。

なのに私たちは入ってきている情報を都合よく修正する。

 

赤ちゃんは視力が悪いと聞いたことがあるけれど、視力が悪いんじゃなくて、近くのものがじゃまだったんじゃないかな。。
とか思ったりする。
私たちは普段自然に、目の前のまつげや鼻を無視して世界をみつめてる。

 

目が色を解釈できる範囲は極限られていて

目の端の方は白黒のはずなのに

目は常に微動して補足して調整する。

 

ぼーっとしてる時も「何か」に焦点を合わせて「見て」いるんだよね…

特に意識することなく何かに視点を合わせてる

 

昔国語の問題文にジャーナリストだか写真家だかの論文があったと思う。

その著者は、

客観性というものは存在しないって

彼らが書いているのは限りなく主観的なんだって

彼らは目の前で起きたことをすべて書き出すことはできない

彼らは主観的にそこにあるものを選び、抜き出してゆく

客観的とはそういうもので

この見えている世界は全部主観でしかない。

 

生命中心主義という宇宙論的な仮説がある。

ランザという人が言ってたらしい。

量子力学の世界でさえ、そんなこと言っちゃうんだと思った。

 

ざっくり言えば、

私たちに見えている世界は、

そもそも見ようとした見方でしか見えないってことなんだと思うの。

つまり、意識や知覚によって左右された世界に生きているということ。世界は全て精神構造を元に顕在しているってこと。

これは私の思考をサポートする都合のいい解釈かもしれないけれど。

 

よって、

人間が作り出した宇宙、世界でしかないんだってこと。

もっといえば、私たち本人が作り出した世界でしかない。

 

パラレルワールドだって死後の世界だってあるって言えちゃうらしい。

 

御都合主義も甚だしい。

だとしたらそりゃぁ世界は人間に都合よく見えるに決まってる。人間がまるで主権者にだってみえるさ。人間中心主義の言わんとしてることだってあながち否定できないってわけだ。

 

そんな創り上げられた世界に、

著しく主観的な世界で、

できるなら自分の能力も超えた世界もまたみてみたいけれど、それがもし難しいなら…

だとしたらまるでこの仮想現実のような中で、もっと自分の都合のいい世界を創ろう。

みんながみんな幸せになれる世界が己の精神構造の中に、常にきっと、存在してる。

 

小さい頃は神様がいてーー♪

きっとホントにいたんだとおもう。

まだ固体化していないたくさんの物質が、あの頃にはみえていたんだと思う。

またなれるかな、あの頃みたいに。

明日の朝は優しい気持ちで目覚めたい。

 

 

 

 

私にも言わせて。

3月8日、IWDの本日

なんだかSNSが騒がしそうなので便乗してみる。

女性の私にも言わせて。

 

某社のハッシュタグに巷でわちゃわちゃ。

言葉の選び方の難しさと

期待通りか否か、踊らされるかのようにムーブメントを起こしたコピーの影響力にまずは感嘆。そして私も波に乗せられてみる。

 

本題。

女性の私が今、思うこと。

 

まず、女性たち自身が

女、女子、レディー、ガール…

数ある性に対する感覚に過剰反応しすぎではないかと思うのです。

 

私も男ばかりの家で、男の多い環境で育って、女であることがすでに劣等感の要因で、不自由で、女らしさというレッテルを嫌ってた。

結婚とか妊娠とかネガティヴな印象が強くて、高校生まで制服以外にスカートなんて履かなかった。

今振り返れば、あれは誰にでも起き得る成長期の過程だったのかと思うけれど…

 

でも、いろんな出会いの中で少しだけ考えが変わってきた。

 

あ、わたし女属性なんだなって。

 

男とか女とか、そういう区別さえも嫌で、

みんな人間じゃんか、そんなので分けないでって。

そう思ってたけど…

 

ああもう私、どんなに逃げても生物的にメスなんだって。

そのコンプレックスに囚われてるだけなのかなって。

 

よし、じゃぁもう人間類女属性なら

アビリティ全部使ったろって。

一度全部やってから向き不向き、良い悪い、

合う合わない決めようって。

 

いろんな状況、感情、環境の人がいて

一概にはいえないけれど、

男やら女やら性を強く意識するということは、

その本人もまた自分自身に対して強く差別しているように感じたんだ。

誰かがじゃなくて、その向けられた言葉や行動をどう感じるか、その自分の捉え方なんだなって。

自分で自分の首絞めてるように感じるようになった。

 

スカートもはいた。

化粧もした。

髪を伸ばした。

女性の所作もしてみた。

 

最初は変な感じもした。

でも慣れると手の抜き方を知った。

場所も人も幅が広がった。

できない、じゃない。

やらない、の選択肢。

TPOで使い分けること。

 

ねぇ、権利があるなら使えばいい。

文句を言うくらいな、利用してやればいい。

したたかにいこう。

行きたい場所に手段がないならその時、声をあげようよ。

 

女子力とかを生んだのも女性

それらに縛られてるのも女性

それらにすがってるのも女性

 

女性専用車両だって

市場に溢れるレディースデーだって

いいじゃないか、あるものを存分に利用してやろうよ。

 

むしろ女性は恵まれてるとさえ思うの。

男性だと白い目でみられるような選択肢だってある。男性には選べない選択肢だってある。

 

男性たちの中に潜在的な女卑の感覚はあるのかもしれない。

じゃぁ、女性側には男性に求めるものは全くないですか?偏見はないですか?

(追記:興味深い話を目にしたのだけど…とあるアメリカの社会動向調査を通したステレオタイプ研究において、女性は実際よりも、男性に対して極端な性差別主義者だと感じている傾向があるという。
よく言えば、平等・公平を重んじ、問題意識を持っているとも言えると同時に、現実よりも大げさに考えてるとも言えるみたい。)

 

大事なのはさ、互いに尊重することじゃんか。

一種の差別感情はしょうがない気もするのよ。

黙って受け止めること、聞き流すことが良いのではなくて、方法を選んで抗議したい。

男性、女性という偏見はそれでは止まらない。

どちらかが優位に立つことじゃない。

立場が逆になっては元も子もない。

文句よりも改善点を見出していきたいよ。。。

 

そんなことを悶々と考えてみた私も、

まだまだ差別だらけだと思うわけで。

毎度毎度アップデータしてこうと思っておりますのよ。ほほほほほほほ。

 

誰もがすでに小説家

小説より奇なり、とか

思い出の一ページ、とか

 

人間は、やたらと自分の人生を物語化するのが好きな生き物だとつくづく感じる。

おそらく人間が他の生き物より長けている能力は、この物語化にあると思う。

つまり、抽象を構造化し、具体化し、表現する能力。

文字や歴史、記憶、進化を生み出してきたのではないかとさえ思う。

 

しかし一方でその方法をうまく使えない、

もしくは使い方がネガティブだと

障害や摩擦も生じる。

 

ありのままを映し出す道具など

やはり存在しないと思うわけで。

写真だって絵画だって言葉だって

全部がホンモノの偽造品で、

全部がホンモノのモノマネだ。

 

漠然と感じるものや

確かにあるのに確かめられないものには

恐怖や無視、抹殺が行われる。

そうするとそれはますます恐ろしいものになっていく。

だから、時に怖くないように研究して

自分たちのゲンゴを用いて表現しようとする。

 

さて、

じゃぁ、私は誰で、一体なんのために産まれ

なんのために生きなければならないのか

どのように生きるべきなのか

どうしてこんなことをしてるのか

そしてどこにいくのか…

 

ふわふわと漂うモクテキのようなものは

まだなにもつかめないし

もしかしたら一生つかめない。

 

まぁそんなもんなわけで。

就活とか進学とかそんなときに自己分析したり

なにをしたいとかどんな人なのかとか…

結局描き方次第なわけで。

要はどんな人生を演じたいかってわけだ。

 

主演、私。

 

産まれが貧乏で…

なんて始まりの悲劇小説にも、または逆転巻き返しの喜劇小説にもなる。

 

ドラマとかみて、

そんなうまい話あるかよ

と思うことがあるけれど、

それはそんなうまい話を描いてるだけ。

結婚のような出会いも、大袈裟じゃなくて本当に運命というかすごい確率なわけだし

この星のその時代のこの生命の中の、人間という種族の中で男女の性を分かち、その時間のその場所で会ったって

それの確率ってどんなもんなんだろ。。。。

 

つまりあんたってすごいんだよ

とか言いたいわけでもなくて

 

私は、どうしようもなく私なわけで

苦しいこととか悲しいこととか山ほどあって

小銭拾うくらいの喜びしかない人生だったとしても、どこを切り抜いて生きていきたいかって話をしたいのです。

 

みんな辛いわけじゃん、たぶんなにかしら。

とりあえず生きてみてるわけじゃん。

だから、お願いだから好きなように描いてよ。

そしてその世界が納得いってないなら

世界から描きなおせばいい。

綺麗なとこだけ見てればいい。

自分の見えてる世界はきっと正しい。

けど全てではない。

描きなおそうともしないのなら、それはきっと悲劇小説の中の主人公に満足してるのよ。

それを認めなさい。

そしたらきっとまた違った話が見えてくる。

 

そうやって叱咤激励しながら今日も私は生きてみる。

 

 

未開の航路

あぁそうか。

コロンブスはすごいんだ。

改めて実感する。

 

SFの小説を読んでいた。

地球から離れて進む宇宙船の中

当たり前だった酸素や地面が揺らぎ

頼みの綱はその船でしかなかった。

設計主と整備士を信じるしかない。

どんどん地球が遠ざかっていく。

まだ見える、まだ見える。

…もう星屑の1つになった。

そこでは

心細さとともに常識が常識でなくなり

新しい常識とルールが生まれる。

 

時間の感覚も昼も夜もなく意味を持たない。

時計がなければ地球の時間もわからない。

そうか、地球上ですら絶対的な時間がなかったのかと思い知らされる。

過去や未来の感覚もない

今、今しかない。

目指す星があるはずだと信じて進んでいるだけだ。

 

現代で考えればそういうことかなと思った。

 

かつて地球が丸くなくて、

像に支えられたり、

亀に背負われたり、

星々は天井の模様だったころ

海の向こうはとてつもなく遠くて、

とてつもなく未知だったと思う。

 

コロンブスの時代はそこまで神秘的ではなかったはずだけれど

なんの頼りも保証もなくて、想定の島だけを目指して、ひたすらに進んでいて

突如として海の果てがあらわれるかもしれない。

そんな可能性は、まだきっとあった思う。

 

 

月に行ったアームストロングもしかり。

「未知」と「未開」との対峙にはどれだけの覚悟が必要なものか、と私はふと口を噤む。

 

生きるか死ぬかとかいう問題のみならず

「当たり前」や「常識」という地に足をつけ生活している時には想像できないほどの恐怖と、

それがどれだけ不安定であるかという事実で

身体中に冷たいものがはしる。

 

いつか、ずーっとずっと先に、

私がこの世にいなくなってしまうくらい先には

宇宙を、まるで飛行機のように飛び交う宇宙船ができるかもしれない。

月エレベーターも夢じゃないかもしれない。

でもきっと、その時にはまた、

未知と未開が、その先にはあって

そこに挑む果敢な勇者たちがいるのだろうなと思う。

 

規模は違えど、そんな勇者はそこら辺にもいっぱいいるのかなとも思えたりする。

私たちにとって今日も明日も

未知と未開で溢れている。

どこにいようと

なにをしていようと

だから自信をもったらいい

うん、自信をもとうっと。

 

私もまたコロンブス同様、

この人生の航路を切り開いているんだろうな。

あるかもしれない恐ろしい世界と、夢だったかもしれないほど不確かな過去たちといつも対峙しているのかな。

自分が信じたいものを信じて、目指したい星に進んでる。

僕たちはブレイン細胞隊

たまに

この世界は1人の体内の中で

私はその細胞のひとつ

いや、もはや遺伝子の核酸を構成する塩基のひとつに他ならないとしたら

という空想ゲームをする。

 

彼はまだまだ成長期で少しずつ拡大している。

そんななかでもひとつひとつの細胞のサイズは大きく変わることはない。

しかし、細胞同士が、ぶつかったり、離れたりしながら分裂し数を増やしていく。

僕たちの住む細胞は脳細胞。

彼は僕たちの基本で、おおもとの存在。

時に彼を神と崇めている。

僕らはシナプスを伸ばして、交通手段を円滑にし、あらゆるところへ迅速に情報交換も可能になった。

他の細胞の解明も進めている。

いつか彼の全貌を知る時が来るかもしれない。

どうやら、彼の他にも何人もいるらしい。

 

例えばだけど、そんなことを考える。

私たちの体内にも、微生物や寄生虫がごまんと存在する。

もはや、いわゆる人間の構成要素、器としての人間は全体の10分の1であり、性格・病気・体型までもが、それらに依存しているのではないかとも言われている。

そしたら、「私」という存在はなんなのだろう。

 

多元宇宙論や宇宙膨張の定説からも、

宇宙自体が何かの生命体として活動していると考える方が自然な気がしてならない。

私たちは何度も何度も、内側に内側に入り込んでいく世界を生きてきたんじゃないかな

とかも考える。

何度も何度も…

マトリョーシカのように。

 

豆粒よりももっともっともっともっと

小さな自分になるまで

くるくるくるくるくるくるくるくる

回りながら小さくなっていく夢をたまにみる。

真っ暗のなか

落ちていくでもなく、沈んでいくでもなく

遠くなるような、集約されていくような

そこは温度のない、感情のない世界で

それに気づいた時寂しさと切なさと心細さで

血の気もさーっと引いていくような…

そんな夢。

 

そもそもこのわっけわからない世界の解釈を

それぞれなんとなくしながら生きているわけで

それが間違ってるとも、正しいとも

誰も教えてはくれない。

 

自分の好きな世界を

自分の住みやすい世界を

見たらいいのだと思う。

そうすることしか私にはできない。

 

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる 」そんなことを言った有名な小説家がいる(ジュール・ヴェルヌ)。

 

想像豊かに生きていこうかな。

暖かな世界で生きたい。

 

ただなだけとでもだけど

私の尊敬すべき友人の1人が結婚した。

 

うわっつらに

ほんと、すごい人、大好きだ

と言ったら

バカにしているのがバレた。

いや、違う。本当は本当なのだけど…。

 

すごいんだよ、尊敬してるんだよ

と連呼すると

彼女は言った。

 

ただ勉強したくてでてっただけだし、

ただそこで働いてただけだし、

ただ結婚しただけだよ

 

そう、でもね、そこなのです。

彼女は

「ただ好きなだけ」で、

「ただやりたいだけ」で、

過ごしてきて、こんなに輝いている。

こんなに「ただ○○なだけ」で生きている人はそう多くない気がしている。

 

彼女のそんなところが好き。

 

きっと、いや少なくとも私は

「ただ」より「でも」の方が多い。

〜がやりたいな、でも…だし

〜が好きだな、でも…だし

 

でも…だけど…

なに?だから?

 

ただ〜なだけ

で生きていくのはとても強い人にみえる。

勇敢にみえる。

私にはできない?

違う、保険が欲しいだけ。

 

彼女は自由でなんでもものを言うようにみえるけれど、とても気がきくし、独りよがりじゃない。具体的にみている。

ただ現実をきちんとみてるだけ

ただ自分に嘘をつかないだけ

 

もちろん人を傷つけたり、迷惑をかけることもあると思う。

でもどんな生き方をしてたって結局1人じゃないし、人の手を借りて生きている。

それを忘れなければいい気がする。

 

 私もただやりたいを大事にして

素直に生きようと感じた夜だった。