私にも言わせて。

3月8日、IWDの本日

なんだかSNSが騒がしそうなので便乗してみる。

女性の私にも言わせて。

 

某社のハッシュタグに巷でわちゃわちゃ。

言葉の選び方の難しさと

期待通りか否か、踊らされるかのようにムーブメントを起こしたコピーの影響力にまずは感嘆。そして私も波に乗せられてみる。

 

本題。

女性の私が今、思うこと。

 

まず、女性たち自身が

女、女子、レディー、ガール…

数ある性に対する感覚に過剰反応しすぎではないかと思うのです。

 

私も男ばかりの家で、男の多い環境で育って、女であることがすでに劣等感の要因で、不自由で、女らしさというレッテルを嫌ってた。

結婚とか妊娠とかネガティヴな印象が強くて、高校生まで制服以外にスカートなんて履かなかった。

今振り返れば、あれは誰にでも起き得る成長期の過程だったのかと思うけれど…

 

でも、いろんな出会いの中で少しだけ考えが変わってきた。

 

あ、わたし女属性なんだなって。

 

男とか女とか、そういう区別さえも嫌で、

みんな人間じゃんか、そんなので分けないでって。

そう思ってたけど…

 

ああもう私、どんなに逃げても生物的にメスなんだって。

そのコンプレックスに囚われてるだけなのかなって。

 

よし、じゃぁもう人間類女属性なら

アビリティ全部使ったろって。

一度全部やってから向き不向き、良い悪い、

合う合わない決めようって。

 

いろんな状況、感情、環境の人がいて

一概にはいえないけれど、

男やら女やら性を強く意識するということは、

その本人もまた自分自身に対して強く差別しているように感じたんだ。

誰かがじゃなくて、その向けられた言葉や行動をどう感じるか、その自分の捉え方なんだなって。

自分で自分の首絞めてるように感じるようになった。

 

スカートもはいた。

化粧もした。

髪を伸ばした。

女性の所作もしてみた。

 

最初は変な感じもした。

でも慣れると手の抜き方を知った。

場所も人も幅が広がった。

できない、じゃない。

やらない、の選択肢。

TPOで使い分けること。

 

ねぇ、権利があるなら使えばいい。

文句を言うくらいな、利用してやればいい。

したたかにいこう。

行きたい場所に手段がないならその時、声をあげようよ。

 

女子力とかを生んだのも女性

それらに縛られてるのも女性

それらにすがってるのも女性

 

女性専用車両だって

市場に溢れるレディースデーだって

いいじゃないか、あるものを存分に利用してやろうよ。

 

むしろ女性は恵まれてるとさえ思うの。

男性だと白い目でみられるような選択肢だってある。男性には選べない選択肢だってある。

 

男性たちの中に潜在的な女卑の感覚はあるのかもしれない。

じゃぁ、女性側には男性に求めるものは全くないですか?偏見はないですか?

(追記:興味深い話を目にしたのだけど…とあるアメリカの社会動向調査を通したステレオタイプ研究において、女性は実際よりも、男性に対して極端な性差別主義者だと感じている傾向があるという。
よく言えば、平等・公平を重んじ、問題意識を持っているとも言えると同時に、現実よりも大げさに考えてるとも言えるみたい。)

 

大事なのはさ、互いに尊重することじゃんか。

一種の差別感情はしょうがない気もするのよ。

黙って受け止めること、聞き流すことが良いのではなくて、方法を選んで抗議したい。

男性、女性という偏見はそれでは止まらない。

どちらかが優位に立つことじゃない。

立場が逆になっては元も子もない。

文句よりも改善点を見出していきたいよ。。。

 

そんなことを悶々と考えてみた私も、

まだまだ差別だらけだと思うわけで。

毎度毎度アップデータしてこうと思っておりますのよ。ほほほほほほほ。

 

誰もがすでに小説家

小説より奇なり、とか

思い出の一ページ、とか

 

人間は、やたらと自分の人生を物語化するのが好きな生き物だとつくづく感じる。

おそらく人間が他の生き物より長けている能力は、この物語化にあると思う。

つまり、抽象を構造化し、具体化し、表現する能力。

文字や歴史、記憶、進化を生み出してきたのではないかとさえ思う。

 

しかし一方でその方法をうまく使えない、

もしくは使い方がネガティブだと

障害や摩擦も生じる。

 

ありのままを映し出す道具など

やはり存在しないと思うわけで。

写真だって絵画だって言葉だって

全部がホンモノの偽造品で、

全部がホンモノのモノマネだ。

 

漠然と感じるものや

確かにあるのに確かめられないものには

恐怖や無視、抹殺が行われる。

そうするとそれはますます恐ろしいものになっていく。

だから、時に怖くないように研究して

自分たちのゲンゴを用いて表現しようとする。

 

さて、

じゃぁ、私は誰で、一体なんのために産まれ

なんのために生きなければならないのか

どのように生きるべきなのか

どうしてこんなことをしてるのか

そしてどこにいくのか…

 

ふわふわと漂うモクテキのようなものは

まだなにもつかめないし

もしかしたら一生つかめない。

 

まぁそんなもんなわけで。

就活とか進学とかそんなときに自己分析したり

なにをしたいとかどんな人なのかとか…

結局描き方次第なわけで。

要はどんな人生を演じたいかってわけだ。

 

主演、私。

 

産まれが貧乏で…

なんて始まりの悲劇小説にも、または逆転巻き返しの喜劇小説にもなる。

 

ドラマとかみて、

そんなうまい話あるかよ

と思うことがあるけれど、

それはそんなうまい話を描いてるだけ。

結婚のような出会いも、大袈裟じゃなくて本当に運命というかすごい確率なわけだし

この星のその時代のこの生命の中の、人間という種族の中で男女の性を分かち、その時間のその場所で会ったって

それの確率ってどんなもんなんだろ。。。。

 

つまりあんたってすごいんだよ

とか言いたいわけでもなくて

 

私は、どうしようもなく私なわけで

苦しいこととか悲しいこととか山ほどあって

小銭拾うくらいの喜びしかない人生だったとしても、どこを切り抜いて生きていきたいかって話をしたいのです。

 

みんな辛いわけじゃん、たぶんなにかしら。

とりあえず生きてみてるわけじゃん。

だから、お願いだから好きなように描いてよ。

そしてその世界が納得いってないなら

世界から描きなおせばいい。

綺麗なとこだけ見てればいい。

自分の見えてる世界はきっと正しい。

けど全てではない。

描きなおそうともしないのなら、それはきっと悲劇小説の中の主人公に満足してるのよ。

それを認めなさい。

そしたらきっとまた違った話が見えてくる。

 

そうやって叱咤激励しながら今日も私は生きてみる。

 

 

未開の航路

あぁそうか。

コロンブスはすごいんだ。

改めて実感する。

 

SFの小説を読んでいた。

地球から離れて進む宇宙船の中

当たり前だった酸素や地面が揺らぎ

頼みの綱はその船でしかなかった。

設計主と整備士を信じるしかない。

どんどん地球が遠ざかっていく。

まだ見える、まだ見える。

…もう星屑の1つになった。

そこでは

心細さとともに常識が常識でなくなり

新しい常識とルールが生まれる。

 

時間の感覚も昼も夜もなく意味を持たない。

時計がなければ地球の時間もわからない。

そうか、地球上ですら絶対的な時間がなかったのかと思い知らされる。

過去や未来の感覚もない

今、今しかない。

目指す星があるはずだと信じて進んでいるだけだ。

 

現代で考えればそういうことかなと思った。

 

かつて地球が丸くなくて、

像に支えられたり、

亀に背負われたり、

星々は天井の模様だったころ

海の向こうはとてつもなく遠くて、

とてつもなく未知だったと思う。

 

コロンブスの時代はそこまで神秘的ではなかったはずだけれど

なんの頼りも保証もなくて、想定の島だけを目指して、ひたすらに進んでいて

突如として海の果てがあらわれるかもしれない。

そんな可能性は、まだきっとあった思う。

 

 

月に行ったアームストロングもしかり。

「未知」と「未開」との対峙にはどれだけの覚悟が必要なものか、と私はふと口を噤む。

 

生きるか死ぬかとかいう問題のみならず

「当たり前」や「常識」という地に足をつけ生活している時には想像できないほどの恐怖と、

それがどれだけ不安定であるかという事実で

身体中に冷たいものがはしる。

 

いつか、ずーっとずっと先に、

私がこの世にいなくなってしまうくらい先には

宇宙を、まるで飛行機のように飛び交う宇宙船ができるかもしれない。

月エレベーターも夢じゃないかもしれない。

でもきっと、その時にはまた、

未知と未開が、その先にはあって

そこに挑む果敢な勇者たちがいるのだろうなと思う。

 

規模は違えど、そんな勇者はそこら辺にもいっぱいいるのかなとも思えたりする。

私たちにとって今日も明日も

未知と未開で溢れている。

どこにいようと

なにをしていようと

だから自信をもったらいい

うん、自信をもとうっと。

 

私もまたコロンブス同様、

この人生の航路を切り開いているんだろうな。

あるかもしれない恐ろしい世界と、夢だったかもしれないほど不確かな過去たちといつも対峙しているのかな。

自分が信じたいものを信じて、目指したい星に進んでる。

僕たちはブレイン細胞隊

たまに

この世界は1人の体内の中で

私はその細胞のひとつ

いや、もはや遺伝子の核酸を構成する塩基のひとつに他ならないとしたら

という空想ゲームをする。

 

彼はまだまだ成長期で少しずつ拡大している。

そんななかでもひとつひとつの細胞のサイズは大きく変わることはない。

しかし、細胞同士が、ぶつかったり、離れたりしながら分裂し数を増やしていく。

僕たちの住む細胞は脳細胞。

彼は僕たちの基本で、おおもとの存在。

時に彼を神と崇めている。

僕らはシナプスを伸ばして、交通手段を円滑にし、あらゆるところへ迅速に情報交換も可能になった。

他の細胞の解明も進めている。

いつか彼の全貌を知る時が来るかもしれない。

どうやら、彼の他にも何人もいるらしい。

 

例えばだけど、そんなことを考える。

私たちの体内にも、微生物や寄生虫がごまんと存在する。

もはや、いわゆる人間の構成要素、器としての人間は全体の10分の1であり、性格・病気・体型までもが、それらに依存しているのではないかとも言われている。

そしたら、「私」という存在はなんなのだろう。

 

多元宇宙論や宇宙膨張の定説からも、

宇宙自体が何かの生命体として活動していると考える方が自然な気がしてならない。

私たちは何度も何度も、内側に内側に入り込んでいく世界を生きてきたんじゃないかな

とかも考える。

何度も何度も…

マトリョーシカのように。

 

豆粒よりももっともっともっともっと

小さな自分になるまで

くるくるくるくるくるくるくるくる

回りながら小さくなっていく夢をたまにみる。

真っ暗のなか

落ちていくでもなく、沈んでいくでもなく

遠くなるような、集約されていくような

そこは温度のない、感情のない世界で

それに気づいた時寂しさと切なさと心細さで

血の気もさーっと引いていくような…

そんな夢。

 

そもそもこのわっけわからない世界の解釈を

それぞれなんとなくしながら生きているわけで

それが間違ってるとも、正しいとも

誰も教えてはくれない。

 

自分の好きな世界を

自分の住みやすい世界を

見たらいいのだと思う。

そうすることしか私にはできない。

 

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる 」そんなことを言った有名な小説家がいる(ジュール・ヴェルヌ)。

 

想像豊かに生きていこうかな。

暖かな世界で生きたい。

 

ただなだけとでもだけど

私の尊敬すべき友人の1人が結婚した。

 

うわっつらに

ほんと、すごい人、大好きだ

と言ったら

バカにしているのがバレた。

いや、違う。本当は本当なのだけど…。

 

すごいんだよ、尊敬してるんだよ

と連呼すると

彼女は言った。

 

ただ勉強したくてでてっただけだし、

ただそこで働いてただけだし、

ただ結婚しただけだよ

 

そう、でもね、そこなのです。

彼女は

「ただ好きなだけ」で、

「ただやりたいだけ」で、

過ごしてきて、こんなに輝いている。

こんなに「ただ○○なだけ」で生きている人はそう多くない気がしている。

 

彼女のそんなところが好き。

 

きっと、いや少なくとも私は

「ただ」より「でも」の方が多い。

〜がやりたいな、でも…だし

〜が好きだな、でも…だし

 

でも…だけど…

なに?だから?

 

ただ〜なだけ

で生きていくのはとても強い人にみえる。

勇敢にみえる。

私にはできない?

違う、保険が欲しいだけ。

 

彼女は自由でなんでもものを言うようにみえるけれど、とても気がきくし、独りよがりじゃない。具体的にみている。

ただ現実をきちんとみてるだけ

ただ自分に嘘をつかないだけ

 

もちろん人を傷つけたり、迷惑をかけることもあると思う。

でもどんな生き方をしてたって結局1人じゃないし、人の手を借りて生きている。

それを忘れなければいい気がする。

 

 私もただやりたいを大事にして

素直に生きようと感じた夜だった。

 

この空気に名前をつけてみる

 

…………。

 

 

…え?今の間なんだ。。。

今何が起きたんだろう。

気まずい。激しく気まずい。。

 

そして私は思ったのです。

気まずいってなんなんだ………。

 

【気まずい】には必ず相手がいます。

 人と人の間や、空間に存在しています。

英語ではよく、awkwardを当てられるようですが、なんかすこーし違う気がするのです。

噛み合ってない様子とか、

しっくりこないって意味なのだけど

 

いやいや、

私は意味とか訳が知りたいのではなくて

私たちが何を勝手に感じ取ってるのか

というのが知りたいのです。

 

なんか明らかなズレというよりも

もっと感覚的な話な気がするのです。

 

気持ちがしっくりせずに不快な感覚を指すようですが…

コレってさ、こっちだけの問題なのかな?

私が気まずい時って必ず向こうも気まずいのかな?

こっちだけの話だったらさ、

単なるストレスの一種じゃないですか。

勘違いというか、勝手に思い込んで

なんか居心地悪くて落ち着かなくて、

どうしていいかわからなくて

とりあえず笑ってみる。みたいな。

うんうん、そういうことありそうだよね。

 

でもさ、こっちは気まずいつもりじゃなかったのに気まずさって伝染したりする。

あれ、これたぶん気まずい感じだよね?とか

ふと目があった他人とか?

 

待って待って。

いわゆる、空気を読むってやつだと思うのだけど、私たちはどうやって空気を読んでるんだ。

 

たぶん1番は表情なんだろうな。

相手を見て、

あ、今の発言まずったなって気まずくなる。

けど今や、対面しないネット社会でも起きているでしょ。

 

空気を読むってのは一種の能力なのだそうだ。

IQならぬEQと言われるようだけれど…

「空気」を研究してる人もいるくらい

空気というやつは不思議だ。

 

よし、では「気まずい」ゾーンに入ってみる。 

んー…どうやるんだろ。

違う、それは「恥ずかしい」。

それは「失礼」だな。

 

あ、やっぱり【気まずい】は相互作用かな。

 

相手が考えていること、たぶんわかってしまったけど、どうしていいかわからない。

相手におそらくバレてしまっている、

隠したいけど、もう無理だろうな

いやもはや察して欲しいのかもしれないけど

そうともいえない。

 

みたいな連鎖反応?

 

【気まずい】

その場、またはその対象の相手の思考や感情を推し量る行為を通して生ずる気恥ずかしさや決まり悪さ。

推し量った後、対応が判断できない、逃れようがない、なんとかしたいがどうしようもない状況。

逆に自分の思考を読まれているのではないかと感じる際にも生ずる。

(読みの正確さは問題ではない)

 

私の【気まずい】に近いのはこんな感じかな?

 

空気というやつには多様なキャラクターがあるようだ。

その空気の特性を理解して、抜き出せたら、アビリティにしたい。

トラッキングノスタルジー

懐かしいような

切ないような

胸を締め付けるような感覚

気を抜いたら涙が溢れそうな想い

今この場所とは違う誰か別の追憶の底から湧き上がるような気持ち

 

俗にノスタルジーや郷愁などと言うけれど

過去の思い出や故郷を思い返しているわけではないときも多々ある。

 

初めて触れる曲、絵画、人、風景

ひとむかし前の知らないはずのモノ

創造で描かれる未来の世界

あいつはなぜノスタルジーを引き起こす?

 

前世だとか、レトロフューチャーだとか

いろんな言われ方や似たような感覚があるようだけれど、

定かではないことが多いようである。

私はこいつを一旦追いかけてみることにした。

 

ノスタルジーや郷愁はそもそも

過去の経験などから

ふと思い起こされる記憶と

その時に起きたすでに失われた情動。

喪失感情のようなもの。

しかしネガティヴな面ばかりでなく

心理的なポジティブな面もあるようだ。

漠然とした「あの頃」という、もはや美化されたような時が、自己肯定に役立つ場合がある

 

また懐かしむ思いと共に

二度とみることができないかもしれないものへの感情を含む。

夕日をみて切なくなる思いもそれに似ている。

刹那的な世界を憂いているのかもしれない。

今日という日、

今この瞬間も死に続ける自分の細胞たち、

無意識のうちに享受している事実と対峙しているのかもしれない

 

美しいものに対しても起こり得るようである。

創造の世界における美しい世界

移りゆくことのない世界

最も絶頂でありそれ以上はありえない盛者の世界

 

あぁ無常。

 

そんなものたちの前で

私たちはきっとあまりに無力で

どうしようもない思いを抱えるのだと思う

 

あぁデカイ。

 

とにかく計り知れないくらいの力がはたらいていることに気付かされる。

 

空を見上げる、海を見る、

壮大な自然を触れる

 

歳を重ねるごとに増えるのは

経験や年を重ねるごとに同心円状に増え続ける未知数な世界

そんな諦めにも似た感情がノスタルジーなのでは…

 

時空を問わない疑似体験

自分が強く心揺さぶられるもの

叶わないけど憧れるもの

そして原動力

ノスタルジーを超えて私を支えるもの

 

ノスタルジーよ、落ち着いてくれ

もう少しゆっくり話をしよう。

君をもっと知る必要があるみたいだ。