記憶の改竄

学校の先生が昔、

自分が試合でもらったトロフィーをテレビの横にずーっと置いておいたのに、久しぶりに実家に帰ったらどこにもなくて、尋ねてみると、そんなものは元々ないと言われたらしい。

あんまり否定されたものだから、自分の記憶までも曖昧になって、思い込みなんじゃないかと感じ始めてしまった。記憶は自分だけでは成立できないものなのだ。

と、言っていたのを思い出す。

 

確かに、他者から与えられる間違った真実や、曲がった真実に影響され、記憶も改竄される。

 

それだけじゃない、自分が自分に与えた感覚が正当化され誤ったものまで正しいものだと信じ込む。

 

私などは、実際にはなかったという、お遊戯会の踊りと歌をありありと覚えている。

小さい時に刻み込まれた虚記憶。。

未だにその記憶が何によって形成されたのかは、わからないでいるし、私は今でもそのお遊戯会があったと思っている。根拠はないけど…

私の中にはそんな真偽の定かではない記憶が山程、それも人と共有できる記憶と同じ程か、時にそれ以上に鮮明に残っている。

 

夢もまたしかり。

私に与える虚記憶の源…。

現実離れしているようで、妙に設定のしっかりしたリアリティのある夢が多いもので。

どっかで帳尻合わせをしてるのだろう、

自分の記憶なのか、どっかの物語で読んだのか、映画とかでみたのか、話で聞いたのか、空想なのか、夢なのか……。

 

そんで、夢記録を一時期とってみたことがある。

これがまたややこしいことがおきる。

夢を再想起させると、記憶が固定化されるのか、余計現実と入り混じり初めて、現実と夢とが紙一重の気持ちの悪い浮遊感を味わったことがある。

 

だから私は人に夢日記は、あまりお勧めできない。

 

つまり、記憶ってものは人間のすごい能力だけど、記録能力と再生能力とがどうも別々に作動する上に、蓄積された記憶も他の脳機能とバッチリ提携結んじゃってるもんだから、もはやその抜群の能力を正確にコントロールするのは大変至難の技だっちゅー話です。

 

また、指向性なんていう脳の型番があるからますます記憶なんて信用できない。

過去なんていう、確かめられない痕跡的で曖昧な記憶などはホントに単なるストーリーだ。

正確に何かをそっくりそのまま記憶することなんてそもそも、この情報過多な世界の中でほぼ不可能だろうし。多面的に捉えるなんて尚更。

 

「今朝目覚めた私は、昨日までの記憶を全てもって、その瞬間に生まれていたのだとしたら。

そうでないとどうして言えるのだろうか。」

 

みたいな一節を高校の時に読んで共鳴したはずなのだけど、そんな記憶さえもすごく曖昧で。

エンデとかだったような気がするんだけどなぁ、それがなかなか見つけられないのです。

そんな文言なかったのかな…。

誰かと共有しとけばよかったなぁ。

記憶とは、今この瞬間に持ち合わせた、そして何かとの繋がりによって支えられているものなのかもしれないのです。

どこかで繋がれないかな、その本と。