国際男性デーは11月19日だそうです。

3月8日。またIWDが通り過ぎたので、

今一度女性について考えてみたんだ。

 

世界的にみたら、やっぱり問題は山ほどあるだろうし、権利を主張する必要があるもの、問題自体が気づかれず隠れてしまっているものたちが、ボコボコと音を立てるように地表から少し顔を出す。問題が問題であると認識されることは良いことだと思うけれど、そんな中でも、やり方に違和感を感じることがある。

 

女性が活躍している、女性が引っ張っていると言ったポジティブに聞こえる表現が、実はあまり好きになれない。曖昧な表現だし、頑張っている女性がいるのだろうけれど、それはその人の成果だし、「女性」というレッテルのようなのが逆に目立つ。まぁ…所詮は考えすぎなんだろうけど。

 

女性の活躍を数や指標、順位なんかで表したのを前面に打ち出すのも好きになれない。わかりやすいとは思うけれど、大切なのはそこに出てくる数字ではなく、内容だと思う。数字は嘘をつかないかもしれないけれど、数字はコントロールが簡単だ。増やせば見栄えが単純によくなる。でも中身が付いて来ていないこともあるし。

 

世界基準を揃える必要もないと思う。イスラム教は女性に厳しいといった印象がある一方、ある研究ではコーランは世界で初めて女性の権利を謳った宗教だという人もいるみたいだし。

そりゃ国際社会だから影響されるし、されて然るべきだと思うけど、文化も環境も違うし、経済も政治も違うのだから、その国の中の最善と、差異の共有、または交流における妥協点が大事だと思う。

 

じゃぁ女性って性について考えれば…

やっぱり生まれ持って出てきてしまった性別は、一種の個性であり、特性であるに過ぎないなということ。顔やスタイルが良い子はモデルをやるかもしれないし、運動ができる子はスポーツ選手になるかもしれない。頭が良ければ学者になるかもしれないし。それはそれぞれみんなの能力で、性別もその1部だと思うんです。その個性は良くも悪くも影響力が比較的大きいということ。

だから、男女差のある職業があるのはしょうがないし、わざわざどんな場所でも平等に男女がいる必要はないと思う。大切なのは機会がひらけていることかな。無理に結果における数の平等をとる必要なんかない。

 

最近じゃ、アンチフェミニズムを唱える女性も増えているらしい。なんだか本末転倒?なんというかたぶん、単に捉え方とか実際に行われてるやり方への反発ではないかと思うんだ。

時代が変わっていくのだからフェミニスト的なやり方も変化していく必要があるのかなと思う。

 

せっかくの国際女性デーなのだから、世間への不満や、他人からの視点よりも、女性たち自身が女性であることを誇れる日であればいいなぁと思う。

女性バンザイ!わたしバンザイ!

女性らしさとか、自分らしさとか、もうほっとこ。

大変なこともあるけど、すごいぞ!偉いぞ!

そうだこんな日には

自分に、女性に、花束を贈ろう!

 

さて、11月19日は国際男性デーだそうだ。

もっとそっちの知名度もあがるといいね。