※個人の感想です。
バラエティや通販サイトでよく見かける言葉。
個人の感想です。
そしたら、なんで全ての番組で用いないのかなぁと、ふと思った。ニュースや情報番組でももっと多様されてもいいのではないかと。
まぁそもそも苦情対策だろうから、苦情が出なそうなところで出す必要はないわけで、苦情がでるからバラエティの規制も厳しくなるわけだけど…。
それでも、私が思うのは、バラエティは個人の感想だが、ニュースは違うのか?という差別化が著しいと感じるのだ。ニュースだってコメンテーターとか個人の感想だいぶ含んでますよね?って。
まぁそもそもバラエティ番組でもそんな表示出さなくてもいいだろ派で、大事なのは事実であって、そんな表面の表記に興味はない。ただ、そういった苦情を出す人は全部に逐一ちゃんとしてくれているのだろうかと。
ニュース情報番組の与える影響の大きさがどれほどのものか。バラエティが与える悪影響とはどんなものか。
結局は全部リテラシーの話になってしまうけれど、バラエティ番組の規制が増え、情報番組では確かな情報が流れてることになるのかな?
して、なぜそんな話になったかといえば。
昔からニュースは悲しい出来事が多いなと、漠然と思ってたのだけど、事実なら何を伝えてもいいのかと、知りたい内容ならどんな伝え方でもいいのかと。
なんだか人の死が消費されているように感じたからなのだけれど。
事件や事故はもちろんのこと昨今では、いじめや労災による自殺の話。そしてその命は、1つの例となって、いつしかひとまとめにされて、時が来たら忘れられてしまったように話題にもあがらない。もちろん遺族の意向もあるのかもしれないけれど、それを見た今苦しんでいる人はどうしたらいい?流すなというのではなくて、流すことの影響はどう考えてるのかなと改めて思うようになった。
個人的には、もしそういう情報を流す側として考えたら、そういう事実があるという共有と、世間的に認めてはいけないという風潮を広げることと、対策を急ぐよう呼びかけになること、かわいそうだという共感と加害者への非難を促すものになるのではと考えるのではないかと。
でも今死にたい人とかはそれを見てどう感じるのかなって。あぁ、みんなそうなんだ、私1人じゃないって安心する?そうなのかな。
私は私だもの、1つの事件からすぐに自分の解決には繋がらないと私なら思う。少なくともそんな楽観的になんて考えられない気がするの。
私だったらね。個人の感想だけど。
むしろ、あぁ、そっかぁ、遺書は書いといた方がいいかもなぁとか、線路に飛び込むのは迷惑かなぁとか、そんなこと考えてしまう気がする。先に逝った人がいる私だけじゃないって。
離婚した片親の子どもは、結婚しても離婚する確率が高い。なんていうジンクスがある。
これは、親が離婚したから、両親の家庭を知らないとか遺伝とか性格とかなんか直接的な問題があるわけではないらしい。離婚が身近なものとしてあることが原因の1つといわれている。選択肢としてあがりやすいのだろう。
ちなみに、同じ理由で同棲をしたが別れたことがある人も離婚率が上がるらしい。
つまり、身の回りで触れる機会が多いものに対しての壁が低くなりやすいということを意味する。
最近の離婚率があがっているのも、離婚率があがっているという情報が離婚率をあげる可能性があるのではないかとさえ思う。
離婚に関しては我慢しなくていいと気が楽になるかもしれないね。辛かったら、嫌だったらやめたらいいのだけど…
事実だろう。事実なんだろうけど、その情報をもってして、どうしたい?事実を伝えることは大切かもしれないけれど、それを伝えるとどうなる?
まっ、結局見る側の問題なわけですよね。
そうなのよ。そう考えると、バラエティの暴力的な描写と、危険な映像と、残忍な事件と、何が違うのですかと思うのです。
して、私が思うのは、身の回りでの対応策をもっと伝えて欲しいということ。その事実を流すことにも意味があるだろうけれど、他に実際に助かっている人がたくさんいるということ、共感と共有で見た人の心が救われる道を示すこと。
嘘や妄想を並べろというわけではないけれど、アホみたく夢みたいなこと流せってわけじゃないけど、もっともっと幸せの形を情報として流してもいいのではないかと。その比率が限りなく五分に近い方がいいと思うんだ。むしろ人の幸せなんか記憶に残らないことが多くて、危機管理として嫌なことばかり頭に残るから、少しハッピーの方が多くてもいいくらいだと思う。
辛い人には幸せアピールはマイナスになることももちろんあるから手放しにただハッピーを流せともいえないけれど、幸せな時代に生きているなと満足感が増す可能性もあるのではないかと。
そんな生ぬるい情報で甘ったれた考えではいけないと思うかもしれないけど、なにクソって反骨精神を鍛えるのもいいけど、みんなが幸せだなぁ、はははぁってアホヅラでもよくない?
全部事実であることが前提だよ、もちろん。そして、悪いニュースを全く流すべきではないとも言わない。
けどね、結局ニュースで得られるのは情報であって身近には感じにくい。悲しみも切なさも苦しみも、結局人なんて、他人事だと思えるから立て続けの悲劇的なニュースを見ていられるんでしょ?
親族の死を、最愛の人の事件を、友人の事故を淡々と事実だけを述べるニュースを見ていられるの?私には無理。
個人の感想だけど。
この情報過多な世界で、1つ1つのニュースを、限りなく量は少ないけど、毎日丁寧に扱う。そんなニュース番組があってもいいんじゃないかなって。そう思ったんだ。
同窓会という時空と現実の瞬き
私は人の幸せを幸せに思いたいし、思おうとしてるつもりだ。
うん、「している」というほど恣意的でも、無理にでもないのだけれど、少なくともふんわりと広がる緩やかな温かさと、幸せを分けてもらえてはいる。
けれどやはり、その温かな湯船からあがると、嫉妬や、焦燥や、空虚さという好ましくない感情が私を襲うことがあるのだ。
古くからの友人たちが、何にも囚われることなく当たり前に日々会うことが、少しずつ、少しずつ難しくなっていくのを、改めて感じざるを得なかった同窓会。
家族がいる者、結婚する者、仕事がある者、海外に行く者。
幸せで充実した素敵な理由が、彼らを私から遠ざける理由として聞こえてしまうのであった。
これはきっと私がまだまだ自分の人生を使いきれていないのだと、自分に振り返り思い直すのだが、ぷつりと針で刺したような小さな穴から、冷たい風が流れて来る気がした。
肌寒い。
隙間風は、気にしなければ気にならなかったはずなのに、気になり出したらなかなか無視できなくなる。
思い出に浸っているだけなんだろうな。
小さな頃、白髪の混ざった大人たちが、少年少女のように笑う飲食店の一角が、なぜか時空を越えているようにみえたよね。
懐かしむ思いと、その戻らない時間にほんの少し触れたから、切なさを覚えただけなんでしょ。
けれど、誰かの代わりを誰かに託すことなんてできないし。いい思い出だったわ。なんて彼らとの出会いを単なる過去に終わらせてしまいたくないし、終わらせないでと願ってしまう。
ワガママだからさ。1度繋がったものを、1度触れた紐の先っぽを、放してなるものかと。
こっち向いてよって。。私を忘れないでって。
口に出さずに胸が詰まった。
そうして気づいたのです。
あぁそうか、こうやって私は昔の自分と少しずつお別れをしなければいけないのだなと。彼らとではなく、昔の自分と。
これはきっと、過去の私が消えて逝く冷たさなのだと。
何気なく生きている毎日も、また知らず知らずのうちに今日の自分を終えて逝く。
終えた私が、今の私に置いてかないでと縋るんだ。ねぇ、一緒にいようって。こっちは幸せだよって。
けれどそれはもう私の亡霊で、だからホントはとても冷たくて、怨念が私を包み、人の幸せを妬み、哀しさを植えつける。
どうしたもんかな……
とにかくもう、今を、一瞬を、もっともっと輝いて生きなくては。そうやって、その一瞬を燃やすことで、私は生きる為の暖を取り続けなければ。
そうでもしないと、昨日の私が、そして昔になっていく私たちが報われない気がしたんだ。
とにかくもう、今を、今の私は、幸せだと叫び続けたい。
そうして素直に、心から人の幸せを喜びたい。
逢えなくなったっていいんだって。
私たちはいつも一瞬の強い光だったんだからって。なんてさ、思えるような人になりたい。
皆勤賞という弊害という考え方という責任転嫁?
皆勤賞を廃止しようという時代の流れがあるようです。
日本社会的に、有給休暇を使わない、休みにくい雰囲気を助長しているからみたいです。
休まない=偉いという感覚を払拭したいみたいです。
その感覚を他人に強要するのは違うとは思うし、どうも賛成派が多いようですが、なんでわざわざ皆勤賞を廃止する必要があるのかと、私などは思ったりしています。
廃止を反対したいというよりは、それにそんなに意味があるのかなと、もう少し詳しく聞きたいのです。
主人公を特定の子にしない舞台劇に
1位を決めない運動会。
競争も賞賛もされないのがいいのでしょうか。
私の感覚がずれてるのでしょうか。
多義性を重んじるなら、みんなそれぞれ褒めてあげても良くないですか?
元気が取り柄の子とか、いや病弱だからこそ休まずに行こうとした子を、最後の最後に表彰することがいけないことですか?
休んじゃいけないなんて、学校も言ってないですよね?卒業単位とりゃいいわけでしょ?
そういった意見の方は、皆勤賞を取った方なのかな?取れなかったけど、強制されてた人なのかな?
大学時代も皆勤賞だったのかな?休まずに授業受けてた?あぁそっか、皆勤賞ないから休めるのか。なるほど……。
じゃぁ、大人になって休まなかったねぇ、偉いねぇって褒められたいのかな?大事なのは休まないことじゃなくて、結果出すことでしょ?
みんなはなんで休めないのかな?褒められたいから休まないの?迷惑かかるとか思うからのほうじゃないのかな?学校休んだら誰かに迷惑ってかかったっけ?
社会人のシステムと学生の時のシステムってちょっと違くない?
皆勤賞が目的になっても、それはそれでまたいいとは思うんです。それで学校行きたいって思えるなら、それでもいいんじゃない?行きたくない子が多い時代に、少しでも理由があるなら、それでもよくないですか?
皆勤賞には、意味がないんだそうです。子どもの頃に表彰されたあらゆる中でも、最もメリットがなく、むしろやっぱり休めない社会を作る弊害なのだそうです。
確かに今後に活かせるようなメリットないかもしれないですね。でも思うのは、そもそも無意味なものは表彰してはいけないのでしょうか。
正直私は、小学生の時にもらった賞は、現在ほとんど活用などできてないと思います。そもそも小学生くらいの時にもらった賞なんてそんなもんではないのでしょうか。いや、というかそんなん言い出したら巷に無駄な賞なんて山ほどありません?
表彰に意味や価値を付加させられるのは本人の考え方次第だと思います。どんな立派と言われる賞だって、使い方次第、アピール次第じゃない?
なんかやったら、結果褒められちゃった、
やっぴーくらいな感じ。
それがなんか個人的に頑張ったものなら、それぞれの賞を貰ったっていうだけで、自分の能力とか頑張りとかよりも存在を肯定されたみたいで嬉しかったけどな。
単に皆勤賞廃止ってのはさ、
じゃぁめんどくさいし、廃止!
って言っているようにみえてしまうのです。そうじゃないとは思うけれど…
そうでないとしたら、皆勤賞のシステム少し変えてみるとかではダメなのかな?熱がでて休んでも公欠にしてあげたら?社会人の有給システムみたいな。それじゃホントに休まなかった子がかわいそう?嘘ついてまでそんなのに必死に皆勤賞欲しいならあげれば?だって皆勤賞に意味ないんでしょ?意味ないならあげてもよくない?むしろ今後有給をうまく使う練習ができるよ。うん、そのほうが有意義じゃない?
高校くらいからは課外授業や認定単位システムみたいの導入するのは?
いじめられてたり、学校行きたくなかったり、すでに将来の夢があってもっと関心のあるものに使える時間を作ってあげるのは?
そもそもね、学校休む子は悪でしたか?家族旅行とかでも私は羨ましくてしょうがなかった。行けるもんなら行きたかった。ディズニーランド行ってきたぁってお土産くれる子、嫌われてた?休むのはイケナイこと、なんて感覚、そん時も持ってなかったと思うんだよなぁ。
それにさ、偉いか偉くないか、じゃなくて
単純に休まないって結構大変だと思うんだよね…。行きたくないとかってあるじゃん。友だちと喧嘩しちゃった時とかもあるじゃん。体調悪いときも、嫌いな科目があるときも。でも全部、なんとか乗り切ってきたか、まぁそういうことが無かったか。そりゃそれでハッピーラッキーすげーじゃんって。運がいいのもすごくない?
皆勤賞は絶対残すべきだ!って主張まではないけれど、私はただ、褒めてあげる機会を減らすことにそこまで重要な意味があるのか、と思うのです。
休めない社会人は皆勤賞貰った人たちなわけじゃないと思うんです。だって私の学校では1年に2、3人しか出てなかった気がするの。
つまりさ、そんなに大量の休めない人は生産されてないはずなんだよ。そうじゃない?
つまり、根本的な感覚の問題でしょ?
それ、皆勤賞の所為にしてないですか?
って思うのです。
なんで素直に、休まなかったの?すげーって言えないんだろ。
学校なんてそもそも行かなくたってどーとでもなるという個人的な意見がある中で、行った子におつかれさまぁーみたいのあってなにがいけないのか、と。
賞賛するに値しないってことなのかな。
なに毎日学校きてんだよってなるのかな。
ばかみたいなのかな。
誰かを傷つけるのかな?
休まないことは悪なのかな。
廃止です!皆勤賞は害です!って私はあまり直結しなくて…悪い面もあるのかもしれないけれど、それは皆勤賞が悪いの?その表彰の仕方とか、取り組み方とか、別のところにあるような気がする。そしてもっと、休めない日本人性を変える方法あるんじゃないかってことを言いたかったのでした。
いろんな意見の人がいると思うけど、
皆勤した方々には、賞とか無くなって構わないから、とりあえず私からは
すげーね!っと伝えたいです。
追記
皆勤賞廃止について、友人と話してみました。私の考えが至らない部分があったのだけど、学校の、特に義務教育において、基本的には社会の縮図というか、当たり前だけど、社会で必要である知識を身につける場である以上、社会で価値があると考えられるものに教育の場にも価値を持たせる必要があると。で、社会に出た時に、休まないね、偉いねにはならないと。だったら、教育機関において、その労力を社会にも還元できるとこに向けさせる必要があると。また、「賞」として維持することに、少しでも不快に思う人がいるのであれば、社会に直接還元されないものは排除した方がいいだろうという、ざっくりいえばこう言った見解ではないかと。
なるほど、理解した。
とはいえ、一種の強制的で規則的な時間で、リズム正しく、健康に過ごすことって実は私はあの時期しか求められていなかった気がするから、あれが自分に向いているのか、向いてないのか、お試し期間な気もするんだよね。それができることは一種の特性だとは思うのね、だから賞としてではなくても、価値はあると思うの。だから、賞という形が残らないとしても、休まずいった人にはやっぱりすごいねって言ってあげたいし、それをどう活かそうかって話してみたいな。
学問と科学信者
日本人はあんまり宗教には興味ない人が多い傾向にあるし、なんなら禍々しいものだと思っている人さえいると思うのです。
宗教って、結局は人の信念なわけで、拠り所となるものじゃないですか?と、私は思っているのです。
ニーチェによって神は死んだと宣言されたけれど、私はやっぱりあると思うのですよ。漠然と。…などと、私は宗教をとやかく言いたい訳ではなくて…。
今の人たちの多くは科学教なのではないか
と、思ったのです。
かく言う私もそうなのではないかと。
宗教に関してはとても興味があるのですが、どうもどれもストンと落ち着かず、どの宗教もそれなりに素敵なことを言っているし、
私は○○教だわ!とは言い切れないのです。
けれど私たちはたぶん皆、太陽は地球の回転から東から昇るものだと思っているし、1年は365日だし、夜に光る星々は「☆」なんかじゃなくて恒星だと知っているし、地球は丸くて、生命の進化論を信じてる。
インターネットも、電子機器も当たり前のように社会に溢れてる。
人間の構造もより深く理解され、医学が進歩し、移植も、義手義足も充実しつつある。そしていつでも自由に頭の中で考えることができるのです。
だけど、かつては地球が世界の中心で、地球は丸くないし、人間は神の子だった。
1週間は必ずしも7日だったわけではないし、天文学の基本も違ってるし、そもそも1年は365日ピッタリになんかできてない。
箱に入れて温めたり、冷すことができて、遠方と連絡できるなんて、まるで魔法だ、呪術だ。
人間の肝心要は心臓よりもむしろ肝臓だったし、魂は脳の松果体にあった。
頭の奥から聞こえる声は、ダイモンの語りかけだったかもしれない。
神はいつも私たちの手の届かないところをも知っているものたちだったよね。たぶんきっと。
でも今は、研究や実験、観察によっていつかきっと世界のあらゆることを知ることができる、と信じてはいまいか?
少なくとも私は信じていると思うの。ある意味では。
そして私は昨今、量子力学にはまり始めたのです。
量子力学が死後を含むこの世界をより鮮明に解明しようと、ずっと奮闘しているのです。なんとも挑戦的です。
量子力学というジャンル自体がまたこれが、不可解なことが多すぎて、私の頭なんかじゃ、なんてヘンテコなことを言っているのだと、日常生活ではなかなか掴めない感覚を訴えているのですが…
それでも私はその研究の成果を信じてしまうのです。
だからたぶん私は科学信者なのだなぁと思ったのです。
そうです、拠り所となっているのです。
なぜか勇気が湧いてくるのです。
だから科学も一種の宗教だなと思ったのです。
しかし一方で、なぜこんな話になったのかというと、科学信者特有の疑うという性質が発動してしまったが故でございます。
なんとこの世界の当たり前を当たり前に受け入れていることかと、改めて驚いてしまったからであります。
しかし、どんな宗教にも救われない人がいるのだとしたら、どうか物理学や、化学、科学、医学に、生物学に触れてみてはどうかなと。表面でしか知らない情報がよくよく読んでみると、なんと神秘的なことか、とたまに私は思ってしまうことがあるのです。そして、のめり込んだらより研究を深めてくれないかな。
私や、その他多くの科学信者のために。
私ももし、いつか神的な研究が発表されて、その結果に触れることがあるならば、ちょっとだけ布教活動に参加してみたいなと思うのでした。
ちなみに今はロジャー・ペンローズさんの世界観が魅力的。なかなか理解しきれないけれど。
私の大事な「あいうえお-ん」
自己紹介とかで、ざくっと自分を表現するのに、四文字熟語とか、座右の銘とか、そういうのかっこいいなぁって思ってるんです。
けど、どーも私にしっくりこなくて
目標とか一年の抱負とかなんかそういう大いなることには向いてるかもしれないけど
そんなの簡単に決められないなぁ。って、思ってて。いい言葉はたくさんあるしさ。
似合う人いいなぁ、私も欲しいなぁ、でも難しいなぁって思ってたんです。
じゃぁ自分が大切なことって何かなぁ
って考えてたら。
なんか似たような発音の言葉が多いなと思ったから、あいうえお作文してみたんだ。
あ : 案(あん)
い : 因(いん)
う : 運(うん)
え : 縁(えん)
お : 恩(おん)
案
大切なのは発想力と想像力に計画力。
自分の思いつき、インスピレーションは大切にしたいし、
それを実行できる力が欲しい。
因、
そのためには、どうしてやりたいのか、どうして欲しいのか、どうなりたいのか。
理由と根拠が大切。活力の源。
自分を自分たらしめるために必要な自分の所在を突き止めたい。結局いちばん私がほしいのは原因と理由。なんで?どうして?小さな頃からの口癖。
運、
どんなに実力があったって、運が悪いと報われないとも言う。
正直私は実力は伴ってないなと思っていても、うまくいっていることが何度もある。
運はすごくいい方だと思ってるんです。運にすがるのは違うと思うけれど、運は味方にしない手はない。
縁
そんな運を運んでくれるのは、大切な周りの方々。どんな些細な関係も無碍にしたくない。
私の手元にある物や機会も一緒。
どんなものだってご縁があってのものなんだ。と信じてる。
恩
けれど、過信してはいけないし、驕ってはいけない。いつも心には感謝を。ご恩を大切に。
物を大切に。
そーやって生きているつもりだし、
それを忘れずに生きたい。そして、ちゃんと全部手に入れたい。
そういう言葉のあいうえお。
私のだいじなあいおえお。
いつも心にはあいうえお〜ん!
記憶の改竄
学校の先生が昔、
自分が試合でもらったトロフィーをテレビの横にずーっと置いておいたのに、久しぶりに実家に帰ったらどこにもなくて、尋ねてみると、そんなものは元々ないと言われたらしい。
あんまり否定されたものだから、自分の記憶までも曖昧になって、思い込みなんじゃないかと感じ始めてしまった。記憶は自分だけでは成立できないものなのだ。
と、言っていたのを思い出す。
確かに、他者から与えられる間違った真実や、曲がった真実に影響され、記憶も改竄される。
それだけじゃない、自分が自分に与えた感覚が正当化され誤ったものまで正しいものだと信じ込む。
私などは、実際にはなかったという、お遊戯会の踊りと歌をありありと覚えている。
小さい時に刻み込まれた虚記憶。。
未だにその記憶が何によって形成されたのかは、わからないでいるし、私は今でもそのお遊戯会があったと思っている。根拠はないけど…
私の中にはそんな真偽の定かではない記憶が山程、それも人と共有できる記憶と同じ程か、時にそれ以上に鮮明に残っている。
夢もまたしかり。
私に与える虚記憶の源…。
現実離れしているようで、妙に設定のしっかりしたリアリティのある夢が多いもので。
どっかで帳尻合わせをしてるのだろう、
自分の記憶なのか、どっかの物語で読んだのか、映画とかでみたのか、話で聞いたのか、空想なのか、夢なのか……。
そんで、夢記録を一時期とってみたことがある。
これがまたややこしいことがおきる。
夢を再想起させると、記憶が固定化されるのか、余計現実と入り混じり初めて、現実と夢とが紙一重の気持ちの悪い浮遊感を味わったことがある。
だから私は人に夢日記は、あまりお勧めできない。
つまり、記憶ってものは人間のすごい能力だけど、記録能力と再生能力とがどうも別々に作動する上に、蓄積された記憶も他の脳機能とバッチリ提携結んじゃってるもんだから、もはやその抜群の能力を正確にコントロールするのは大変至難の技だっちゅー話です。
また、指向性なんていう脳の型番があるからますます記憶なんて信用できない。
過去なんていう、確かめられない痕跡的で曖昧な記憶などはホントに単なるストーリーだ。
正確に何かをそっくりそのまま記憶することなんてそもそも、この情報過多な世界の中でほぼ不可能だろうし。多面的に捉えるなんて尚更。
「今朝目覚めた私は、昨日までの記憶を全てもって、その瞬間に生まれていたのだとしたら。
そうでないとどうして言えるのだろうか。」
みたいな一節を高校の時に読んで共鳴したはずなのだけど、そんな記憶さえもすごく曖昧で。
エンデとかだったような気がするんだけどなぁ、それがなかなか見つけられないのです。
そんな文言なかったのかな…。
誰かと共有しとけばよかったなぁ。
記憶とは、今この瞬間に持ち合わせた、そして何かとの繋がりによって支えられているものなのかもしれないのです。
どこかで繋がれないかな、その本と。
躍動する文字
文字がさ、立つときありませんか?
うまく言えないけど。
3Dにみえるというか。
ただ文字を追いかけて、眺めるように読んでいる時は、規則正しくそこに並んで静かにしてるんだけどさ、
言葉の意味を理解し始めると、なのか、
動き出すというか、脈打つというか。
すくっとたって主張しはじめるというか
単語がアイデンティティを掴みはじめるというか。
私にもよくわからないのだけど。
昔、小説ばかり読んでたときは、たぶんそれがすごく普通だったんだと思うんだけど…
少しずつ大きくなって、いろんなジャンルを読んでみると、
面白いし興味深いはずなのに、
意味を理解しきれてないのか、
ボーッとして眠くなってくる。
昔みたいに主張してこない。
んで、あ!寝てた、しまった。
とかで何回か戻りながら読んでるうちに
文字が、こう、文字じゃなくて…
音として聞こえてくるというか。
なんか視覚的ではない何かになるというか…
ぁあ、そう例えば!
物語とかなら、わかりやすくて、
登場人物がいて、世界に潜り込んでくると
キャラクターがさ、自分の中で勝手にできてきて、意志を持ち始めて、
文字の裏というか、本の中で世界が踊り出して、「読む」というよりも、「居る」感じになる。
音は聞こえるし、世界は見えるし、匂いもするし、感情も大きく揺れるでしょ?
でも、そういう空間的な世界がない話には
そんなものないと思ってたのです。
たぶん、今までは。
でも、なんかこう
ん?ってさっきなって。
こりゃなんじゃ?って。
文字が滑りだすっていうのかな?
こういう現象なんていうんだろう。。
調べたら、ディスレクシアにおいてそういう現象があるらしいですね。
ただ、そういう物理的にというか、もっと感覚的なはなしなのだけど…
あ、そう、
こうやって自分でなにか書き込むときとか
自分の文字はすごく逆で
平面に縛り付ける感覚?
叩きつけられるというか。
だから、動かないの。
んー意味不明だ。
私もよくわからないし伝わらないかもしれないのだけど…。
というかそもそも文字ってなんぞや…。
不可解じゃー、不可解じゃ。
この呪文はなんぞや。
この現象はなんぞやー!!
ん?おいおい!
ちょっと興味深い本を見つけた!
何かわかるかもしれない!
現象学に、シュルレアリスム、メルロ=ポンティまでいる!
よし!ここにきっとヒントがあるはず!
引き続き調査を続けるであります!
どこかにもきっと、同じような人がいるはず。
一緒に読んでみませんか?
↓
『本を読むときに何が起きているのか』
http://filmart.co.jp/books/composite_art/honwoyomutoki/