学問と科学信者

日本人はあんまり宗教には興味ない人が多い傾向にあるし、なんなら禍々しいものだと思っている人さえいると思うのです。

 

宗教って、結局は人の信念なわけで、拠り所となるものじゃないですか?と、私は思っているのです。

ニーチェによって神は死んだと宣言されたけれど、私はやっぱりあると思うのですよ。漠然と。…などと、私は宗教をとやかく言いたい訳ではなくて…。

 

今の人たちの多くは科学教なのではないか

と、思ったのです。

かく言う私もそうなのではないかと。

 

宗教に関してはとても興味があるのですが、どうもどれもストンと落ち着かず、どの宗教もそれなりに素敵なことを言っているし、

私は○○教だわ!とは言い切れないのです。

 

けれど私たちはたぶん皆、太陽は地球の回転から東から昇るものだと思っているし、1年は365日だし、夜に光る星々は「☆」なんかじゃなくて恒星だと知っているし、地球は丸くて、生命の進化論を信じてる。

インターネットも、電子機器も当たり前のように社会に溢れてる。

人間の構造もより深く理解され、医学が進歩し、移植も、義手義足も充実しつつある。そしていつでも自由に頭の中で考えることができるのです。

 

だけど、かつては地球が世界の中心で、地球は丸くないし、人間は神の子だった。

1週間は必ずしも7日だったわけではないし、天文学の基本も違ってるし、そもそも1年は365日ピッタリになんかできてない。

箱に入れて温めたり、冷すことができて、遠方と連絡できるなんて、まるで魔法だ、呪術だ。

人間の肝心要は心臓よりもむしろ肝臓だったし、魂は脳の松果体にあった。

頭の奥から聞こえる声は、ダイモンの語りかけだったかもしれない。

 

神はいつも私たちの手の届かないところをも知っているものたちだったよね。たぶんきっと。

でも今は、研究や実験、観察によっていつかきっと世界のあらゆることを知ることができる、と信じてはいまいか?

少なくとも私は信じていると思うの。ある意味では。

そして私は昨今、量子力学にはまり始めたのです。

量子力学が死後を含むこの世界をより鮮明に解明しようと、ずっと奮闘しているのです。なんとも挑戦的です。

 

量子力学というジャンル自体がまたこれが、不可解なことが多すぎて、私の頭なんかじゃ、なんてヘンテコなことを言っているのだと、日常生活ではなかなか掴めない感覚を訴えているのですが…

それでも私はその研究の成果を信じてしまうのです。

だからたぶん私は科学信者なのだなぁと思ったのです。

そうです、拠り所となっているのです。

なぜか勇気が湧いてくるのです。

だから科学も一種の宗教だなと思ったのです。

 

しかし一方で、なぜこんな話になったのかというと、科学信者特有の疑うという性質が発動してしまったが故でございます。

なんとこの世界の当たり前を当たり前に受け入れていることかと、改めて驚いてしまったからであります。

 

しかし、どんな宗教にも救われない人がいるのだとしたら、どうか物理学や、化学、科学、医学に、生物学に触れてみてはどうかなと。表面でしか知らない情報がよくよく読んでみると、なんと神秘的なことか、とたまに私は思ってしまうことがあるのです。そして、のめり込んだらより研究を深めてくれないかな。

私や、その他多くの科学信者のために。

 

私ももし、いつか神的な研究が発表されて、その結果に触れることがあるならば、ちょっとだけ布教活動に参加してみたいなと思うのでした。

 

ちなみに今はロジャー・ペンローズさんの世界観が魅力的。なかなか理解しきれないけれど。

 

 

私の大事な「あいうえお-ん」

自己紹介とかで、ざくっと自分を表現するのに、四文字熟語とか、座右の銘とか、そういうのかっこいいなぁって思ってるんです。

けど、どーも私にしっくりこなくて

目標とか一年の抱負とかなんかそういう大いなることには向いてるかもしれないけど

そんなの簡単に決められないなぁ。って、思ってて。いい言葉はたくさんあるしさ。

似合う人いいなぁ、私も欲しいなぁ、でも難しいなぁって思ってたんです。

 

じゃぁ自分が大切なことって何かなぁ

って考えてたら。

なんか似たような発音の言葉が多いなと思ったから、あいうえお作文してみたんだ。

 

あ : 案(あん)

い : 因(いん)

う : 運(うん)

え : 縁(えん)

お : 恩(おん)

 

案 

大切なのは発想力と想像力に計画力。

自分の思いつき、インスピレーションは大切にしたいし、

それを実行できる力が欲しい。

 

因、

そのためには、どうしてやりたいのか、どうして欲しいのか、どうなりたいのか。

理由と根拠が大切。活力の源。

自分を自分たらしめるために必要な自分の所在を突き止めたい。結局いちばん私がほしいのは原因と理由。なんで?どうして?小さな頃からの口癖。

 

運、

どんなに実力があったって、運が悪いと報われないとも言う。

正直私は実力は伴ってないなと思っていても、うまくいっていることが何度もある。

運はすごくいい方だと思ってるんです。運にすがるのは違うと思うけれど、運は味方にしない手はない。

 

そんな運を運んでくれるのは、大切な周りの方々。どんな些細な関係も無碍にしたくない。

私の手元にある物や機会も一緒。

どんなものだってご縁があってのものなんだ。と信じてる。

 

けれど、過信してはいけないし、驕ってはいけない。いつも心には感謝を。ご恩を大切に。

物を大切に。

 

そーやって生きているつもりだし、

それを忘れずに生きたい。そして、ちゃんと全部手に入れたい。

 

そういう言葉のあいうえお。

私のだいじなあいおえお。

いつも心にはあいうえお〜ん!

 

 

 

記憶の改竄

学校の先生が昔、

自分が試合でもらったトロフィーをテレビの横にずーっと置いておいたのに、久しぶりに実家に帰ったらどこにもなくて、尋ねてみると、そんなものは元々ないと言われたらしい。

あんまり否定されたものだから、自分の記憶までも曖昧になって、思い込みなんじゃないかと感じ始めてしまった。記憶は自分だけでは成立できないものなのだ。

と、言っていたのを思い出す。

 

確かに、他者から与えられる間違った真実や、曲がった真実に影響され、記憶も改竄される。

 

それだけじゃない、自分が自分に与えた感覚が正当化され誤ったものまで正しいものだと信じ込む。

 

私などは、実際にはなかったという、お遊戯会の踊りと歌をありありと覚えている。

小さい時に刻み込まれた虚記憶。。

未だにその記憶が何によって形成されたのかは、わからないでいるし、私は今でもそのお遊戯会があったと思っている。根拠はないけど…

私の中にはそんな真偽の定かではない記憶が山程、それも人と共有できる記憶と同じ程か、時にそれ以上に鮮明に残っている。

 

夢もまたしかり。

私に与える虚記憶の源…。

現実離れしているようで、妙に設定のしっかりしたリアリティのある夢が多いもので。

どっかで帳尻合わせをしてるのだろう、

自分の記憶なのか、どっかの物語で読んだのか、映画とかでみたのか、話で聞いたのか、空想なのか、夢なのか……。

 

そんで、夢記録を一時期とってみたことがある。

これがまたややこしいことがおきる。

夢を再想起させると、記憶が固定化されるのか、余計現実と入り混じり初めて、現実と夢とが紙一重の気持ちの悪い浮遊感を味わったことがある。

 

だから私は人に夢日記は、あまりお勧めできない。

 

つまり、記憶ってものは人間のすごい能力だけど、記録能力と再生能力とがどうも別々に作動する上に、蓄積された記憶も他の脳機能とバッチリ提携結んじゃってるもんだから、もはやその抜群の能力を正確にコントロールするのは大変至難の技だっちゅー話です。

 

また、指向性なんていう脳の型番があるからますます記憶なんて信用できない。

過去なんていう、確かめられない痕跡的で曖昧な記憶などはホントに単なるストーリーだ。

正確に何かをそっくりそのまま記憶することなんてそもそも、この情報過多な世界の中でほぼ不可能だろうし。多面的に捉えるなんて尚更。

 

「今朝目覚めた私は、昨日までの記憶を全てもって、その瞬間に生まれていたのだとしたら。

そうでないとどうして言えるのだろうか。」

 

みたいな一節を高校の時に読んで共鳴したはずなのだけど、そんな記憶さえもすごく曖昧で。

エンデとかだったような気がするんだけどなぁ、それがなかなか見つけられないのです。

そんな文言なかったのかな…。

誰かと共有しとけばよかったなぁ。

記憶とは、今この瞬間に持ち合わせた、そして何かとの繋がりによって支えられているものなのかもしれないのです。

どこかで繋がれないかな、その本と。

 

 

 

 

 

躍動する文字

‪文字がさ、立つときありませんか?‬
‪うまく言えないけど。‬
‪3Dにみえるというか。‬

 

‪ただ文字を追いかけて、眺めるように読んでいる時は、規則正しくそこに並んで静かにしてるんだけどさ、‬
‪言葉の意味を理解し始めると、なのか、

動き出すというか、脈打つというか。‬
‪すくっとたって主張しはじめるというか‬
‪単語がアイデンティティを掴みはじめるというか。‬
‪私にもよくわからないのだけど。‬

 

‪昔、小説ばかり読んでたときは、たぶんそれがすごく普通だったんだと思うんだけど…‬
‪少しずつ大きくなって、いろんなジャンルを読んでみると、‬
‪面白いし興味深いはずなのに、‬
‪意味を理解しきれてないのか、‬
‪ボーッとして眠くなってくる。‬
‪昔みたいに主張してこない。‬

 

‪んで、あ!寝てた、しまった。‬
‪とかで何回か戻りながら読んでるうちに‬
‪文字が、こう、文字じゃなくて…‬
‪音として聞こえてくるというか。‬
‪なんか視覚的ではない何かになるというか…‬

 

‪ぁあ、そう例えば!‬
‪物語とかなら、わかりやすくて、‬
‪登場人物がいて、世界に潜り込んでくると‬
‪キャラクターがさ、自分の中で勝手にできてきて、意志を持ち始めて、‬
‪文字の裏というか、本の中で世界が踊り出して、「読む」というよりも、「居る」感じになる。‬
‪音は聞こえるし、世界は見えるし、匂いもするし、感情も大きく揺れるでしょ?‬

‪でも、そういう空間的な世界がない話には‬
‪そんなものないと思ってたのです。‬
‪たぶん、今までは。

 

‪でも、なんかこう‬
‪ん?ってさっきなって。‬
‪こりゃなんじゃ?って。‬
‪文字が滑りだすっていうのかな?‬
‪こういう現象なんていうんだろう。。‬

 

‪調べたら、ディスレクシアにおいてそういう現象があるらしいですね。‬
‪ただ、そういう物理的にというか、もっと感覚的なはなしなのだけど…‬

 

‪あ、そう、‬
‪こうやって自分でなにか書き込むときとか‬
‪自分の文字はすごく逆で‬
‪平面に縛り付ける感覚?‬
‪叩きつけられるというか。‬
‪だから、動かないの。‬

 

‪んー意味不明だ。‬
‪私もよくわからないし伝わらないかもしれないのだけど…。‬

‪というかそもそも文字ってなんぞや…。‬
‪不可解じゃー、不可解じゃ。‬
‪この呪文はなんぞや。‬
‪この現象はなんぞやー!!‬

 

‪ん?おいおい!‬
‪ちょっと興味深い本を見つけた!‬
‪何かわかるかもしれない!
現象学に、シュルレアリスムメルロ=ポンティまでいる!‬

よし!ここにきっとヒントがあるはず!

引き続き調査を続けるであります!

 

どこかにもきっと、同じような人がいるはず。

一緒に読んでみませんか?

 

‪『本を読むときに何が起きているのか』‬
http://filmart.co.jp/books/composite_art/honwoyomutoki/

人生の選択肢

結婚と出産は、男女を問わず

つくづく課題に出されてるし

私も気になっているせいか

ネットの記事が目につく。

 

結論から言えば、

私は結婚はどちらでも良いと思っているし、

出産はいつかは経験してみたいと思ってる。

 

けれど、私が気になるのは

自分の主張を展開するために、他の主張を非難、対比することでしか確立させることができないのなら、それは自分の主張の誤りや、負い目や弱みを本人が強く感じている、ということと同じに見える。

 

もちろん、主張は対比することで強化されるし、相手の弱みを突くことで踏み台にできることもあると思う。

でも他人に自分の人生における考えに共感してもらうことにどれだけの価値があるのだろうか。それこそ夫婦のように共に歩むと決めた者同士や、会社の意向とかの話し合いにおいては、建設的な意見が行われるかもしれない。

でも自分単体における人生においては少し違う気がする。

どうして他人の意見がそんなに気になるのか。

それは不安でしょうがないからだと思うのです。

 

誰もがみんな不安だから、いわゆる一般的な流れで生きていこうとするし、周りと波風たてない考えを保とうとする。そうやってうまく生きて行く。

友人や家族にもそうであって欲しいと望む。心配だし、他の対応がわからないから怖い。

ほんの少し人と違うと、みんなに指さされて、アーダコーダと言われる。

そうなると、不安だから、自分と似た人を探す。私だけじゃないと安心する。そう言って他人を例に出す。

 

でもみーんな違うわけだよ、パターンなんて。

大事なのは、なぜそうしたか、自分のことを納得させられるかということだけだと思う。

 

万が一将来子ども欲しかったなぁって思った時、その判断を誤ったと後悔することはないですか?

結婚はしない、1人で生きて行く、と決めたとして、後で寂しくならないですか?

思いもよらず子どもができてしまったとして、きちんとその子を育てられますか?

勢いにまかせて結婚して、その人をずっと愛して行けますか?

 

途中で信念が変わったって構わないと思うのよ、生きてるのだもの、時間が経って人に出会って環境が変われば、考え方だって変わる。

だけど、今この瞬間は、少なくとも後悔しないよ、と自分に言えますか?

 

そしたらさ、胸張って生きたらいいと思うんだ。どんな生き方したって、どーせ人に迷惑かけるわけだしさ。それはちゃんと理解するべきだと思う。

 

みんな自分の人生の経験談からしか話せないわけで、人があまり通らない道はみんな怖いとこだよって言いますわ。そりゃそーよ。

私だって、あなただって一緒でしょ?

攻撃してくる人だって一緒。

怖いよーって脅してくる人の気持ちも分かると思うんだ。

そうだよねぇ、とか笑ってたらいいじゃない?

 

似た人がいるのなら、美談を例にだすのではなく、失敗談をよく聞いた方がいいと思うのです。だっていいと思ってるからそっちいくのでしょ?そんないい話ばっか聞かなくたって、自分にとっていいとこであることは間違いないわけだから。失敗談をクリアする方法を考えた方が有意義だと思うの。そしてそれが、攻撃してくる人たちへの最大の防御になると思う。そんなリスクはとっくに知ってるって言える。

 

反対意見のある人には、逆にたくさん美談を聞いたらいいと思うの。正反対の人生を歩もうとしてる人なら、その幸せは、きっと手に入れにくいところにあるってこと、受け止めた方がいいと思うの。その覚悟があるってことでしょ?

 

お互いの人生をさ、感じられない喜びをさ、共有しようよ。共感しなくたっていいけど、分け合うことはできると思う。

私は全然違う世界で、違う人生を送ってる人の話、聞きたいな。

私が諦めちゃった先の話、聞きたいな。

さみしいなって思うこともあるし、間違っちゃったかなぁって思うこともあるけど、

私は自分に満足してるつもり。

そう思いたいし、満足してない部分はこれからなんとかして埋めていきたいって思ってる。

うまくできちゃいないけど、後ろ向きでネガティブでどーしようもないとき、そうやって言い聞かせてる。

 

政治的にとか、家系的にとか、財政的にとか

それなりにそれなりの意見がどうしてもあって、それはしかるべきだと思う。

それはそれで受け止めなくちゃいけないのだと思う。どうしてもシステムが気にいらないのなら、他にある既存のシステムの中に移動したらいい。逃げるというか、1つの選択だと思う。

私たちは1人では生きていないから、集団の中でそれなりのルールや責任はあるはずだとは思うのです。

それに、システム上おかしい場合は、やっぱり個体に対してどんなに抗議してもしょうがないから、上を叩かなくちゃ。

自分独りだと思わないで。自分が思い立ったことなんて、他の誰かがとっくに考えてること。あとは行動してるかしてないかの差に過ぎないと思う。声をあげればきっと反応するから。

 

と、とやかく言ってみたが

強い口調の意見は、物議を醸すきっかけとなるから、そういう人も必要なのよね、きっと。

現に、私が影響されてるのだから。

 

ただ、私はそういう小さな世界の中で、

必要のない争いはあると思うのだ。

それはお互いが望まないカタチの、暖かな血の通った虚しい争い。

好きだから伝える言葉にも棘があるし、

大切だからと忠告することもあるとは思う、

だったら最初にそう伝えたい、そしてきちんと話を聞きたいんだ、そして私の話も聞いて欲しい。

そうじゃないなら、ホントにそれはただの戯言だと思う。食ってかかるに値しない弱き声。弱い者はよく吠える。

 

どうして、思い合っていてもなかなかうまくいかないのかな……。

そんな周辺でおきるイザコザに、

時に無性に苛立たしく感じるのでした。

 

 

意思疎通のはじめ、疎通の意志表示

昼下がり、少し遅めの昼食を窓際の席で食べるのが好きだ。
天気を見たり、通り過ぎる人をみたり、

淡々とした時の流れに身を任せてるぜぃ

みたいな時間が好きだ。

 

通常はテレビか映画みたいに、ぼーと出来事を眺めているのだけど

ときたま、私に向かってアクションをおこす人が現れる。

 

小学生の社会科見学集団だ。

 

彼らは規則正しく並びながら

または、お行儀よくバスの中で座りながらも

それぞれの個性を存分に発揮し、

そして、団体としての個性も出しながら

目の前を通り過ぎる。

だから見てて微笑ましいし、どこか懐かしい。

思わず凝視してしまう。


すると、どーしてもその中の誰かとは目が合ってしまう瞬間がある。

お互いどーしていいかわからずにいると

向こうは何かに気付いたように

急ににこやかに笑いかけ、小さな手を大きく振ってくる。

 

そういえば、私にもそんなことをしたことがあったような気がするが…

その行動は周知に知られ、瞬く間に感染する。

気づけば、最初の子の周り4、5人も、まるで何かのゲームのように必死になって私に手を振ってくる。

思わず吹き出してしまった。

 

手を振り返すか躊躇してしまったので

彼らの乗るバスは、

信号を渡らざるを得なくなり

視界から姿を消していった。

 

まったく、なんで振り返さなかったのかと後悔が残った。

 

あんだけ無邪気に、手を振れた日を

私はすっかり忘れていた。

 

あの一瞬には、いろんなものが取り払われた、なにか疎通が行われたようにみえた。

ゲームになってしまってからは、私よりもきっとみんなとの繋がりを感じたことだろうけれど

あの時は、言葉でもない何かで

お互いにニヤッと笑いあって…

そして手を振ってくれたんだ。

 

小学生の頃だって悩みはいっぱいあったけれど

もっと物事を、ありのまま、あたりまえに

今よりももう少し素直に受け止めてた気がする。

その分、素直に傷つき、素直に喜んでた。

 

天皇皇后両陛下も、政治家も

なんであんなに手を振るのかな

と、思ってたけれど

手を振り合うってきっととてもほっこりする。

平和ってやつはこのことかもしれない

とさえ、思えた。

戦略的かもしれないけれど、

手を振るだけで「他人」じゃなくなれる。

ただの風景が、いきなり息を吹き返し、意志を持ち、「あなた」とか「君」とか1人の人になる。

友だちとかもそうやって作ってきたような気がする。

そんな感じ。

 

その男の子が私に教えてくれたことは

そういった、どうも言葉にし辛いけれど

素朴な感情だったと思う。

 

今度あったら、きっと振り返してやるのだと心に決めた日だった。

 




死ぬために今を唯ひたすらに生きていたい

そう言ったら凄い目でみられた。

おかしいらしい。

ちなみに前提として、私は死にたいわけではない。

激しく死にたくない。

死ぬから生きるのであって、

死なないならこうして生きてはこれなかったのではないかと思うのです。

死ぬからこそ今を必死に生きている、といえば聞こえが良いようですが、結局ほぼ同義ではないだろうかと思う。

 

例えば人生ってマラソンとかなんとか例えられるけど、マラソンを通して考えてみたんだ。

 

なぜ走るのですか?という問いにはたくさん理由をそれなりにつけれると思うけど

金メダル取るためとか、鍛えるためとか。

でもなぜ、スタートラインにたったのかは究極的にはゴールする為だと思うのです。

 

なぜ生きているのですか?という問いには各々理由をつくれるかもしれないけれど

なぜ、産まれたのですか?と言われたら、究極的には死ぬ為だと思うのです。

超えるべき山はあるかもしれないけれど、

死ぬ為に産まれたと思うのです。

生を成し終える為に生を始めたのです。

 

誤解して欲しくないのは、これは決して悲観的な話ではないのです。

私は常にそう思って生きているのですが

だからこそ今も生きることにすがって生きています。

 

一度だけマラソンに出たことがあるけれど、あの時の目標はとにかく完走することでした。

そんなことするのに意味があるのか

と聞かれると、確かになんの意味があったのかよくわかりません。

でも、スタートした人に対して、どうしてゴールに向かうのか?と聞く人はいますか?

その時もひたすらゴールを目指しましたし、そこには「なぜ?」がいらないくらいにすでに意味があるように感じました。

途中苦しくて辛くても本気でなんで走ってんだと、遅い私には幾度となく自問自答する機会を与えられます。

それでも行けるとこまで行ってみたいんだとそう思いました。

 

無理やりスタトートラインに立たされる人もいるのかもしれない。

そんなとき、そもそも立ちたいとも思わなかったレースに出なきゃいけないのはとても耐え難いと思う。無意味にも思う。

もうやーめた、て思うことも、惰性でやり遂げることもあってしょうがないよなぁって思ったりもする。

 

でもマラソンと人生で違うのはさ、

スタートラインにたっちゃったら、

テープを切ることがゴールなの。

そしてゴールのみならず、もはやスタートラインさえみんな違う場所なの。

せーの、でスタートしないから

みーんな違うレースにでて、

みーんな違うゴールに着く。

 

命が尽きるその時が、そのレースの必ずゴールなの。

 

ホノルルマラソンみたいなレースもあれば

東京マラソンみたいなレースもある。

山岳レースや、トライアスロンみたいなレースもあるかもしれない。

 

そう思うと、このレースにはそもそもライバルってやつぁ存在しない。

 

つまりこのレースにおける意義は

ゴールした時の満足感に他ならない。

生き方、よりもむしろ死に方。

今のこの瞬間のみならず、すべての時間とその最後の瞬間。

 

短いレースを走り抜けることも、

長距離レースを走り続けることも

どっちも内容はそれぞれ大きく違うけれど

どっちもくだらなく思えるし、

どっちも素晴らしく思える。 

 

 死ぬその瞬間に

どれだけ自分に納得できるか

どれだけ笑えるか

どれだけ満足してるか

それだけな気がするんです。

 

走ってみないとレース内容も教えてもらえないし、いきなり道が崩れるかもしれない。

天候にも恵まれないかもしれないし

1日じゃゴールにつかないから持久戦を強いられるかもしれない。

途中で疲れて座り込んじゃうかもしれない。

でも「ゴール!おつかれー」って言ってもらえないから、まだとりあえずゴールまで向かわないといけない。

自転車使ってもいいよーってなるかもしれない。

ワープできるよーってこともあるかもしれない。

 

もうどーしよーもなくて、もうゴールにしちゃうかもしれない。私のゴールはココ。

もう十分って。

一応ゴールはここよぉーって、カーナビみたいな目的地線みたいのがあったかもしれないけど、あなたが言うならそこがゴール。

そん時は、誰がなんと言おうとそこがゴールなの。

 

寿命とかいう漠然とした名前のついた目的地もあるかもしれないけど

そこが必ずしもゴールじゃないのかも。

ゴールを教えてもらえないから、いきなり現れることもある。

ゴールが近づくとゴールテープが見えるときもあるかもしれない。

 

それでも…

やっぱり死に向かって生きるしかない。

だから目的地は終点でしょ?

どんな駅で止まろうとさ。

だから素敵な道を走りたいしできるだけいろんな景色がみたい。それだけ。それだけなの。

 

もちろん、人それぞれでいいと思うし

それぞれの意味や意義や目的を否定する気は全くない。

けれど私はそう思って生きてるの。

少なくとも今は。

そう思って生きるのが一番楽になれたし

一番のびのびできるし

いちばん…生きてる以上生きてていいんだと思えた。

自分のそれ以前も、それ以降も肯定できたし、一方で否定もできた。

一番可能性があったし、一番余地を残したし

一番しっくりきたし、一番確実だったし

そして、一番前を向かなければいけない理由ができたんだ。

 

誰もがみんなゴールテープをきれる

どんな形であっても。

そしてそれはなによりやっぱり尊い気がするんだ。

 

誰も教えてくれない答えなら

もう先に、私が私に答えを作ることにした。

もし答えが違っても、そのときに答え合わせしたらいい。

その時はどうか解説も一緒にして下さい。

そして劣等生な私に、教えを説いて下さい。