僕たちはブレイン細胞隊

たまに

この世界は1人の体内の中で

私はその細胞のひとつ

いや、もはや遺伝子の核酸を構成する塩基のひとつに他ならないとしたら

という空想ゲームをする。

 

彼はまだまだ成長期で少しずつ拡大している。

そんななかでもひとつひとつの細胞のサイズは大きく変わることはない。

しかし、細胞同士が、ぶつかったり、離れたりしながら分裂し数を増やしていく。

僕たちの住む細胞は脳細胞。

彼は僕たちの基本で、おおもとの存在。

時に彼を神と崇めている。

僕らはシナプスを伸ばして、交通手段を円滑にし、あらゆるところへ迅速に情報交換も可能になった。

他の細胞の解明も進めている。

いつか彼の全貌を知る時が来るかもしれない。

どうやら、彼の他にも何人もいるらしい。

 

例えばだけど、そんなことを考える。

私たちの体内にも、微生物や寄生虫がごまんと存在する。

もはや、いわゆる人間の構成要素、器としての人間は全体の10分の1であり、性格・病気・体型までもが、それらに依存しているのではないかとも言われている。

そしたら、「私」という存在はなんなのだろう。

 

多元宇宙論や宇宙膨張の定説からも、

宇宙自体が何かの生命体として活動していると考える方が自然な気がしてならない。

私たちは何度も何度も、内側に内側に入り込んでいく世界を生きてきたんじゃないかな

とかも考える。

何度も何度も…

マトリョーシカのように。

 

豆粒よりももっともっともっともっと

小さな自分になるまで

くるくるくるくるくるくるくるくる

回りながら小さくなっていく夢をたまにみる。

真っ暗のなか

落ちていくでもなく、沈んでいくでもなく

遠くなるような、集約されていくような

そこは温度のない、感情のない世界で

それに気づいた時寂しさと切なさと心細さで

血の気もさーっと引いていくような…

そんな夢。

 

そもそもこのわっけわからない世界の解釈を

それぞれなんとなくしながら生きているわけで

それが間違ってるとも、正しいとも

誰も教えてはくれない。

 

自分の好きな世界を

自分の住みやすい世界を

見たらいいのだと思う。

そうすることしか私にはできない。

 

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる 」そんなことを言った有名な小説家がいる(ジュール・ヴェルヌ)。

 

想像豊かに生きていこうかな。

暖かな世界で生きたい。

 

ただなだけとでもだけど

私の尊敬すべき友人の1人が結婚した。

 

うわっつらに

ほんと、すごい人、大好きだ

と言ったら

バカにしているのがバレた。

いや、違う。本当は本当なのだけど…。

 

すごいんだよ、尊敬してるんだよ

と連呼すると

彼女は言った。

 

ただ勉強したくてでてっただけだし、

ただそこで働いてただけだし、

ただ結婚しただけだよ

 

そう、でもね、そこなのです。

彼女は

「ただ好きなだけ」で、

「ただやりたいだけ」で、

過ごしてきて、こんなに輝いている。

こんなに「ただ○○なだけ」で生きている人はそう多くない気がしている。

 

彼女のそんなところが好き。

 

きっと、いや少なくとも私は

「ただ」より「でも」の方が多い。

〜がやりたいな、でも…だし

〜が好きだな、でも…だし

 

でも…だけど…

なに?だから?

 

ただ〜なだけ

で生きていくのはとても強い人にみえる。

勇敢にみえる。

私にはできない?

違う、保険が欲しいだけ。

 

彼女は自由でなんでもものを言うようにみえるけれど、とても気がきくし、独りよがりじゃない。具体的にみている。

ただ現実をきちんとみてるだけ

ただ自分に嘘をつかないだけ

 

もちろん人を傷つけたり、迷惑をかけることもあると思う。

でもどんな生き方をしてたって結局1人じゃないし、人の手を借りて生きている。

それを忘れなければいい気がする。

 

 私もただやりたいを大事にして

素直に生きようと感じた夜だった。

 

この空気に名前をつけてみる

 

…………。

 

 

…え?今の間なんだ。。。

今何が起きたんだろう。

気まずい。激しく気まずい。。

 

そして私は思ったのです。

気まずいってなんなんだ………。

 

【気まずい】には必ず相手がいます。

 人と人の間や、空間に存在しています。

英語ではよく、awkwardを当てられるようですが、なんかすこーし違う気がするのです。

噛み合ってない様子とか、

しっくりこないって意味なのだけど

 

いやいや、

私は意味とか訳が知りたいのではなくて

私たちが何を勝手に感じ取ってるのか

というのが知りたいのです。

 

なんか明らかなズレというよりも

もっと感覚的な話な気がするのです。

 

気持ちがしっくりせずに不快な感覚を指すようですが…

コレってさ、こっちだけの問題なのかな?

私が気まずい時って必ず向こうも気まずいのかな?

こっちだけの話だったらさ、

単なるストレスの一種じゃないですか。

勘違いというか、勝手に思い込んで

なんか居心地悪くて落ち着かなくて、

どうしていいかわからなくて

とりあえず笑ってみる。みたいな。

うんうん、そういうことありそうだよね。

 

でもさ、こっちは気まずいつもりじゃなかったのに気まずさって伝染したりする。

あれ、これたぶん気まずい感じだよね?とか

ふと目があった他人とか?

 

待って待って。

いわゆる、空気を読むってやつだと思うのだけど、私たちはどうやって空気を読んでるんだ。

 

たぶん1番は表情なんだろうな。

相手を見て、

あ、今の発言まずったなって気まずくなる。

けど今や、対面しないネット社会でも起きているでしょ。

 

空気を読むってのは一種の能力なのだそうだ。

IQならぬEQと言われるようだけれど…

「空気」を研究してる人もいるくらい

空気というやつは不思議だ。

 

よし、では「気まずい」ゾーンに入ってみる。 

んー…どうやるんだろ。

違う、それは「恥ずかしい」。

それは「失礼」だな。

 

あ、やっぱり【気まずい】は相互作用かな。

 

相手が考えていること、たぶんわかってしまったけど、どうしていいかわからない。

相手におそらくバレてしまっている、

隠したいけど、もう無理だろうな

いやもはや察して欲しいのかもしれないけど

そうともいえない。

 

みたいな連鎖反応?

 

【気まずい】

その場、またはその対象の相手の思考や感情を推し量る行為を通して生ずる気恥ずかしさや決まり悪さ。

推し量った後、対応が判断できない、逃れようがない、なんとかしたいがどうしようもない状況。

逆に自分の思考を読まれているのではないかと感じる際にも生ずる。

(読みの正確さは問題ではない)

 

私の【気まずい】に近いのはこんな感じかな?

 

空気というやつには多様なキャラクターがあるようだ。

その空気の特性を理解して、抜き出せたら、アビリティにしたい。

トラッキングノスタルジー

懐かしいような

切ないような

胸を締め付けるような感覚

気を抜いたら涙が溢れそうな想い

今この場所とは違う誰か別の追憶の底から湧き上がるような気持ち

 

俗にノスタルジーや郷愁などと言うけれど

過去の思い出や故郷を思い返しているわけではないときも多々ある。

 

初めて触れる曲、絵画、人、風景

ひとむかし前の知らないはずのモノ

創造で描かれる未来の世界

あいつはなぜノスタルジーを引き起こす?

 

前世だとか、レトロフューチャーだとか

いろんな言われ方や似たような感覚があるようだけれど、

定かではないことが多いようである。

私はこいつを一旦追いかけてみることにした。

 

ノスタルジーや郷愁はそもそも

過去の経験などから

ふと思い起こされる記憶と

その時に起きたすでに失われた情動。

喪失感情のようなもの。

しかしネガティヴな面ばかりでなく

心理的なポジティブな面もあるようだ。

漠然とした「あの頃」という、もはや美化されたような時が、自己肯定に役立つ場合がある

 

また懐かしむ思いと共に

二度とみることができないかもしれないものへの感情を含む。

夕日をみて切なくなる思いもそれに似ている。

刹那的な世界を憂いているのかもしれない。

今日という日、

今この瞬間も死に続ける自分の細胞たち、

無意識のうちに享受している事実と対峙しているのかもしれない

 

美しいものに対しても起こり得るようである。

創造の世界における美しい世界

移りゆくことのない世界

最も絶頂でありそれ以上はありえない盛者の世界

 

あぁ無常。

 

そんなものたちの前で

私たちはきっとあまりに無力で

どうしようもない思いを抱えるのだと思う

 

あぁデカイ。

 

とにかく計り知れないくらいの力がはたらいていることに気付かされる。

 

空を見上げる、海を見る、

壮大な自然を触れる

 

歳を重ねるごとに増えるのは

経験や年を重ねるごとに同心円状に増え続ける未知数な世界

そんな諦めにも似た感情がノスタルジーなのでは…

 

時空を問わない疑似体験

自分が強く心揺さぶられるもの

叶わないけど憧れるもの

そして原動力

ノスタルジーを超えて私を支えるもの

 

ノスタルジーよ、落ち着いてくれ

もう少しゆっくり話をしよう。

君をもっと知る必要があるみたいだ。

 

 

 

 

 

呪文みたい

毎年9月、10月日本にたくさんやってくる台風たち。

 

どんなに理屈を説明されてもすごいなぁと思ってしまう迫力と、生きているような不思議な動き。自然の威力はとにかくすごくて、酷い。

 

台風の渦の向きは、反時計回り。

でも南半球では時計回りに見えるんだって。

コリオリの力」というのが原因らしい。

学校で聞いたような聞いてないような…。

 

慣性力の一種で、回転座標軸上(地球上)におけるみかけ上の力。

つまり、見え方なんて立ち位置次第ということで…。

改めて自分の見えている世界がいかに一面的か突きつけられる気分だ。

 

それにしても、

エルニーニョやらラニーニャやら

気象名称は呪文だらけ。

ちなみにエルニーニョスペイン語の男の子(イエス•キリスト)、ラニーニャは女の子って意味なのだそうだ。

 

気候を操れたら魔法使いになれるだろうな。

モンスーン!ブリザード


いでよ!コリオリの力!!!

 

 

セレンディピティな恋

面影を見つけて

そんなはずはないのに

いるはずもないのに

高鳴る鼓動おさえられずに

車窓から追う彼の姿

ほのかなシトラスの香りがした

 

思い出の人たちに会うときは

どうか少しでも自分があの時よりも素敵でありたいと思っている。

そしてあの時知り合えたことを彼らの喜ばしい思い出にして欲しい。

それがささやかな私の向上心。

勘違いでも、背筋の伸びる思いだった。

 

そんなとき、セレンディピティを思い出した。

思いがけない偶然の幸運に巡り会うこと。

 

人生はもはやほとんどがセレンディピティ

 

運命を信じたい?

奇跡だと感じてる?

 

考え方は人それぞれだけど

何かを摑み取ろうと思っていない人には何も見えない。

思い描いたもの以外を否定してしまう人にも。

失敗は成功の母ともいうが、そんな意味もあるようで、

ある作家が作った造語なんだって。

 

聡明さと、柔軟さと、繊細さがもたらす閃きの力のような気がする。

 

それが運命の出会いなのかどうか

わからないけど

今の幸せと

どんな些細なことも

とりこぼすことなく感じていきたい。

 

それはほんとに

悲しいだけのこと?

寂しいだけのこと?

丁寧に、素直に、そして貪欲に。

 

 

 

人にやさしく

やさしさって難しい。

今は簡単に頑張れって言ったらいけないっていうけれど…

言いたい。

 

誰が決めた?私は言われたい。

「がんばれ!」「頑張ってるよ。」

そんなこと知ってるよ。

 

もっと頑張れよ。

頑張りがたりないよ。

なんで頑張れない?

そんな使い方ばかり目立つ。

 

【頑張る】

には、 諸説あるが

「我を張る」という語源がある。

自分の意思を貫く。

困難にぶち当たっても曲げない。

そういう意味のようだ。

 

人に言われたことをやり通すことじゃない。

無理を強いられることじゃない。

自分がやりたいことをやり通す力のことだと思う。

他人に評価される対象のものではない。

 

頑張れっ!

は、命令として使う言葉じゃない。

足りてるかどうかは自分で判断することだよ。

悔しいと思ったら、がんばれ!

もう辛いと思ったら、やめなよ。

 

がんばれ

は、魂から奮い立たされる言葉なんだと思うのです。

 

【頑張る】

には、眼張るという語源もある。

がんばれは、眼差しだったのかもしれない。

 

がんばれ

は、頑張ってる人を見たときに

何もできないけど、知ってるよ、

応援してるよ

って言葉だったような気もする。

 

ただ、一緒に奮い立たされる思いで

応援する気持ちを伝えることは悪いことですか?

 

だって、私には何もできない

あなたの苦労も、あなたの苦痛も

ちゃんと共有できない。

知ったかぶることしかできない。

もっとわかることができればいいけれど

本人にしかわからないことは山ほどある。

悔しいけれど…

 

やさしさだけじゃ人を愛せないから

なぐさめてあげられない

 

心の中ではガンバレっていっている

聞こえてほしいあなたにも

ガンバレ!

 

THE BLUE HEARTSの曲を改めて聞きたいと思った。